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言い争う声が聞こえた。
パスタを茹でる匂いの中、テレビのアナウンサーが陽気に喋っている。枕元の腕時計を掴んで、俺は時刻を確認した。21時少し前だった。
「なんで渉君がそこまでする必要があるの。あの子はただの塾の生徒でしょう」
女の声は金切り声ではないけれど、強い怒りを含んでいた。俺は彼女が嫌いだった。彼女は俺に優しくないし、先生を困らせてばかりいるから。
「色々と事情があるんだ。あがっていってよ、いつも通りに……」
「いつも通りなんて一つもないわよ。生徒と一緒に私を泊める気? 私をなんだと思ってるの?」
「なんで怒るのかわからないよ」
「私には貴方がわからないわよ。貴方はやりすぎよ。その顔だって、あの子に殴られたんでしょう」
「ゆっこだって、ぶつことあるじゃん」
「私とあの子を同列にするの!?」
カチコチ進む秒針越しに、先生の背中を眺める。先生は途方に暮れて、深く頭を垂れていた。
早く言えばいいのに。別れよう。君にはもう付き合いきれないよ。
早く言ってくれればいいのに。
「おまえのためにも、古川のためにもならないんだ」
言い争う声は、南先生の時もあった。この人も嫌いだった。塾にいるときは好きだったけど、先生の家に住むようになってから嫌いになった。
「古川は家から逃げてるだけだ。このまま、いつまで住まわせる気だ。相手は未成年だぞ」
「ご両親には連絡を取ってるよ。時期を見て、一緒に家に伺おうと思っ……」
「今すぐ電話して、引き取りに来させろ。何かあった時、おまえが責任を取らされるんだぞ」
「……なんだよ、その言い方……」
「おまえを心配してるんだ」
「あの子を心配してよ! あの子はいい子なんだ、南だって知ってるだろう!?」
ハズレだよ、先生。
時計の音にまどろみながら、俺はそっと瞼を閉じた。俺はたぶんいい子じゃない。そう思ってるのは先生だけだよ。
かわいそうな先生。俺につきまとわれたせいで、彼女も友達も無くしちゃって。早く一人ぼっちになればいいのに。
ベッドで寝返りを打つ気ままな俺を、南先生が怖い目で見ていた。俺は薄く笑った。煙管をくわえた彼女の笑い方をまねたつもりだったけれど、あまり上手くはいかなかった。
「家に帰ろう、古川」
頼み込むように、南先生は言った。
寝台の傍らに正座して、真っ直ぐに俺を見つめる。真面目で誠実な南先生は、もう少し笑えば父さんに似ていた。
「もういいだろう」
何がもういいんだろう。
時間が走り続けていく。夜霧をさまよう汽車のように。
銀河に向かうつもりで飛び乗るけれど、車輪は花を散らして暴走するばかりだ。誰も望まないことを、無性にしてしまう。冷めた熱狂に螺旋を描いて落ちていく。
「先生……」
目を覚ますと、部屋はめちゃくちゃだった。俺が暴れたんだろう。一晩中飛び続けたベッドのスプリングは壊れ、枕の羽が散乱していた。食器もテーブルも壊せるものは全部壊れてた。
先生はベッドに凭れ、テレビのリモコンを握っていた。散乱した部屋でテレビを見ている先生は、滑稽で面白かった。声をかけようとして、俺ははっとする。
先生はリモコンじゃなく、注射器を握っていた。左腕の静脈に上手に針を差し込んでいる。やばいよという気持ちと、喜びがこみ上げた。これからは一緒に楽しめる。
「いつからやってたの?」
肩を掴んで振り向かせ、俺は悲鳴を上げた。先生の顔は血だらけだった。ホラー映画のゾンビのように、目玉を残して血みどろになっている。
俺の右手には仲間から貰ったサバイバルナイフがあった。べったりと血が付いている。ああ、そうだ。
そうだった。
ノックの音に、はっと目が覚めた。
身震いをして室内を見渡す。春人は俺の膝の上にいた。電車で眠ってしまった人が、隣の人の肩に凭れて、最終駅に着いた時には膝までなだれこんでいましたという具合に。
「春……」
「白峰」
再びノックの音がして、俺は自分の口を塞いだ。
「鍵を開けてくれ、久保谷。君の部屋だろう」
「いやー……。なんつーか、ハルたんが出てくるまで開けない方がいいような……」
「昼食を逃したらかわいそうじゃないか。白峰、お昼だよ」
先程の明るい声と、通りの良い硬質な声がした。敏腕弁護士が法廷で喋るような声だ。春人の言っていた、怖い辻村だろうか。
そっと春人の肩を揺さぶる。春人は起きなかった。扉の外では学生たちが論争している。
カヤ君が来ればいいのに。春人から聞いた話では、カヤ君は気弱な弟分だ。ホームレスがここにいたって、春人を庇ってくれるんじゃないだろうか。
「白峰、清史郎。……久保谷、早く開けてくれないか」
弁護士が苛立ち始めている。とにかく、春人を起こさなければ。俺は春人を揺さぶった。瞼を閉じた春人は死んだようにぐったりしていて、体温だけが赤ん坊のように熱かった。
遠慮がちに腕を回して、そっと抱き起こす。春人の肩は細く柔らかかった。女の子みたいな柔らかさじゃなく、若い鹿のようなしなやかさだ。猛獣たちが好物にする、幼い動物たちの未発達な肉の感じ。
眠っている春人に彼女のような色気はなかった。無防備で、汚れなく、紡ぎたての綿のようだ。
俺は先生を思い出した。先生は寝相が悪く、俺の腹を枕にしていることもあった。いつの間にか回転して、俺の顎を蹴り飛ばしてることも。
「……春人」
外に聞こえないように耳元で囁いた。ゆるやかな寝息は乱れない。すべらかな頬を叩いても、瞼一つ動かさなかった。
だんだん俺は心配になって、春人の胸に耳を当てた。ぬくもった衣服の向こうから、とくとく小さな心音が聞こえくる。良かった。死んでいない。
だらんと春人は崩れ落ちて、俺は慌てて背中を抱き直した。音を立てないように、春人を寝台に横たえる。
ガチャガチャと鍵を開ける音を背後に、俺はひらりと窓から抜け出した。
「ほら、寝てるだけだよ。清史郎はいないみたいだね」
「……そうだね。ハルたん起こしてあげなよ」
人影が窓に近づいて、雪の降る景色を注意深く眺めた。
俺は裸足のまま、必死に姿勢を低くしていた。上着もない背中に吹雪が張り付く。
長めの髪の生徒は鍵を掛けて窓から離れた。あの野郎。俺はかなり本気で生徒を呪った。せめて長靴を放ってよこせ。
ガチガチと全身が震える。体中に力を入れて踏ん張らないと、寒さで発狂しそうだ。ゆきやこんこんと叫んで走り出したい。教員寮まで歩いて帰ろうとして、数メートル歩いて限界を知る。足の裏が痛い。足首を切り落としたいくらいに。
学生寮の裏を宛もなくうろついて、隣の部屋の窓がわずかに開いていることに気づいた。そっと室内を覗くと中は無人だ。窓辺には灰皿がある。一丁前にタバコを吹かしているボンボンが鍵を掛け忘れて、強風で開いてしまったんだろう。
よっと身を乗りあげて、俺は室内に侵入した。
足の裏を絨毯に擦り付け、摩擦であたためながら、机の上のコーヒーを勝手に飲む。本物のコソ泥みたいだ。
清史郎の部屋と間取りは一緒だけど、こちらの部屋の方がきれいに片付いていた。並んだ机の間には一枚の原稿用紙がある。升目に添わず無秩序に、二種類の筆跡が走っていた。筆談をしていたような跡だ。
清史郎と何を話してる?――口で聞けば?――態度を改めるまで口はきいてやらない――どうぞご勝手に――質問に答えろ――君の態度が改まるまで答えない――聖母役ぐらいでムキになりやがって馬鹿――嫌だっつってんのにしつこんだよ馬鹿――七不思議が怖いなら正直に言えよ。票数を下げる方に扇動してやる。――別に?――嘘だ――全然怖くない――ならやれよ――意味わかんない――素直に怖いって言えば許してやる――――君に許可を貰う筋合いないよ――ちょっと小泉八雲朗読しないで!――怖いって言え――しつこい――聖母役決定――決まってない――馬鹿――根性悪――意地っ張り――何様……
「子供っぽい奴らだな……」
「――鉄平!」
隣の部屋から春人の声がした。窓から顔を覗かせると、同じように窓から身を乗り出した春人と目が合う。
「な……、なんで、その部屋にいるの」
「緊急避難した。今戻るよ」
窓辺の煙草をポケットにくすねて、俺は清史郎の部屋に戻った。
春人はカップ麺とパンを用意してくれた。半分眠ったまま食堂まで連れて行かれて、うどんに七味を入れようとした時に、俺のことを思い出したらしい。「部屋でカップ麺が食べたくなった!」と言って、友人たちの前を飛び出してきたそうだ。
春人は赤面して髪を掻いた。
「寝ぼけてたから、ましな言い訳思いつかなくて……」
春人は俺にカップ麺を用意して、もう一度電気ポットで湯を沸かした。パンをかじりながら、バケツにお湯を張る。
外の雪をバケツに入れて、温度を調節すると、春人は俺を椅子に座らせた。足下に膝をついて、俺の片足を手に取る。彼は忠実な執事のように、俺を足湯に浸からせた。
「……そんなことまでしなくていいよ」
「冷たくなってるじゃない。足湯がいいんだよ。お母さんが、お父さんによくやってあげてた」
「俺、水虫だよ」
「えっ」
「嘘だけど」
口を曲げて、春人は俺を睨む。
お湯に濡れた手で髪を掻きあげながら、春人はバケツに俺の足を導いた。熱湯のように熱く感じたけれど、足が冷えきっているせいだと春人は言った。
恩に着せるわけでもなく、嫌々でもなく、春人は親切だった。どうして、ここまでしてくれるんだろう。足湯で暖まった血が、全身に巡り始める。てきぱきと動く春人を俺は目で追いかけた。
「暖まったら、少し寝てよ。さっきも少ししか寝てないでしょう」
「春人だって同じだろ」
「俺はいいよ。鉄平は夜どうなるかわからないんだから、今のうちにちゃんと寝て。今度こそ居眠りしないように、辛いガム食べとくから。苦手だけど」
「なんでここまでしてくれるんだ」
「正体不明のホームレスに関わっちゃったからね。仕方ないでしょう」
言葉とは裏腹に、春人は優しく微笑んだ。
ぬるま湯に浸かったように、俺の心にも血が巡り始める。俺は思い違いをしていたかもしれない。駆け引きめいた話術や、危うい眼差しに目が奪われていたけれど、彼はただ、本当にただ、心優しい少年なんじゃないだろうか。
鉄平、彼は俺を呼んだ。
白夜さえ足を止める、無償の甘い声で。
「こんなこと、子供の俺が言っても、うるさく思うだけかもしれないけど……。家があるなら帰った方がいいよ」
澄んだ春人の瞳が、俺を見つめている。
マリファナの煙も、白い肌も、不必要なほど色めいているのに、どこまでも純真でたおやかな瞳。
「……家族が暴力を奮うの? 借金があって夜逃げしてきたの?」
俺は間違いに気づいた。
「俺に出来ることがあったら、何でも相談に乗るよ。だから……」
春人の暖かい言葉が、俺の体を吹き抜けていく。何も答えない俺に、春人は下のベッドを用意した。もう少し眠るといい、彼の言葉通り俺は眠った。
柔らかいベッドに横になるのは久しぶりだった。そのおかげか夢も見ずに、俺は深い眠りについた。
目を覚ますと抱きしめられていた。
ぼんやりと事態を認識した直後、俺の鼓動は早鐘のように打った。いつの間にか頭から布団をかぶっていた俺を、布団越しに誰かが抱き締めている。すすり泣きのような声が耳元で聞こえた。
息を潜めて俺は緊張を走らせた。何故かというと、布団の隙間から覗いた人影が、春人でも清史郎でもなかったからだ。
当然だけど、見たことのない学生だ。
彼は誰だ? 俺はどうすればいいんだ?
「……僕は殺したりしない……」
俺は眉を寄せた。呟きも彼は物騒だった。
「計画ノートなんてない。僕は犬殺しじゃない。許すと言ったんだ……」
絞り出すような悲痛な声に、俺は眉間の皺を解いた。布団の隙間から、そっと彼の様子を伺う。
猛毒に苦しみ悶えるように、見知らぬ学生は泣いていた。こんなにひどい泣き方を、俺は見たことがなかった。息を喘がせ、俺にしがみついて、必死に救いを求めている。
「助けてくれ。何も終わらないんだ。頼むから終わらせてくれ、白……」
「気持ちはわかるよ」
無意識のうちに、俺は囁いていた。
あまりにつらそうで、見て見ぬ振りなんて出来なかった。彼の悲鳴は俺の悲鳴だ。泥沼に入り込んでも、何も終わらない。終わらせ方がわからない。
そっと布団から手を出して、筋肉質な彼の肩を撫でる。初対面にしては、近すぎる距離だったけど、彼は大人しく顔を上げた。
涙が不似合いな、理知的な容貌だ。
彼は尋ねた。
「どなたですか」
もっともな質問だった。
難しい問題を要求されたコンピューターみたいに、俺を見つめながら彼は固まった。ひやひやする俺の耳に、足音と話し声が近づいてくる。
「……やから、電話に出た途端、例のあれや。白峰がおるっちゅうから、久保谷の部屋に放りこんどいたんやけど……」
「茅を? 鍵開いてたの?」
「開いてたで。一心不乱に寝てる奴にしがみついとったけど、御影やったんかな」
「ありがとう、わかった。――茅!」
春人は早口に挨拶して、後ろ手に扉を閉めた。落涙する彼と俺を交互に見やって、緊張を走らせる。
俺よりも、春人よりも、フリーズしていた彼が早く動いた。無表情のまま立ち上がり、春人を勢い良く抱きしめた。腕の強さに、春人の背が逸れるほど。
「茅……」
立ち上がった彼は意外と長身だった。春人はよろめきながら、彼の頭を抱き止める。無表情だった彼は、息を吹き返したように、激しく嗚咽しはじめた。
「大丈夫だよ、大丈夫……。お兄さんは来ないよ……」
異様な光景だった。
だが、指をさして笑ったり、眉を潜めていい種類のものではなかった。春人は看護士のように、彼の背や頭を撫で、彼に言葉をかけ続けた。彼の嗚咽は次第に、引き攣った呼吸に変わる。立っていられずに崩れ落ち、春人も膝をついた。ひきつけを起こした赤ん坊のようだった。
痙攣のように彼の背が震えた。春人の肩や腕を掴む指が、真っ白に変色している。俺はベッドを飛び降りて、彼らに駆け寄った。
「大丈夫か? 手を貸すよ」
「大丈夫。――茅、息吸えてるよ。焦らないで!」
春人は彼の口元を覆って、必死に背中をさすった。俺も一緒に彼の背をさする。涙をこぼしながら、彼は限界まで目を見開いて、呼吸を乱していた。棄てられた潜水艦の中で窒息していく人間のようだ。
「救急車を呼んだ方がいいんじゃないか」
俺が言った救急車という単語に、彼はパニックを起こした。呼吸もままならぬまま、乱暴に俺たちの腕を振り解こうとする。声なき声で叫び続ける彼に俺は青ざめた。
「茅! 大丈夫、大丈夫だから! 病院に入れたりしないから!」
春人は必死に彼をなだめ、背中を抱きかかえた。怯えた子供が母親にしがみつくように、彼は春人に両腕を回す。苦痛に顔を歪ませながら、春人は懸命に囁き続けた。ゆっくりとした口調はわざとだろう。
「どうしたの。大丈夫だよ。何も怖いことないよ。俺がここにいるじゃない」
繰り返し頷く彼の瞳から、涙がこぼれ落ちる。
優しく頭を抱き寄せて、春人は微笑んだ。静かな包容には、高校生とは思えない寛容さがあった。
「いい子。大丈夫だよ。茅は何も、悪いことしてないよ……」
この子が茅君なのか。
どれくらいの時間が経ったんだろう。春人の声を受け入れて、彼は呼吸を落ち着かせていった。手足の力を失くして、ぐったりと春人に凭れている。充血した瞳は開かれたままだった。
春人の手首には無惨な痣が残っていた。よほど強い力で握られていたんだろう。俺が指摘すると、春人は今気づいた様子だった。気にすることもなく、優しく彼の頭を撫でる。
大きく息を吐き出して、春人は瞼を閉じた。
「……良かった。落ち着いた」
こいつはどんな人間なんだろう。
明らかに正気を失っている学生に対してではなく、春人に対して俺はそう思った。
妖しい笑みを浮かべたかと思えば、無償の献身で優しさを振る舞う。一方で、優秀な医者や聖人が持つ、人を安心させる貫禄のようなものさえ、素質として備わっていた。
俺の視線に気づいて、春人は頭を下げた。
「ごめんね、留守にして。この部屋の友達に一晩泊めてってお願いしに行ったんだ。鍵を掛け忘れてたなんて……」
「……いいよ。それより、彼は大丈夫なのか」
「うん。しばらくこうしていれば……」
ドンッ、と激しく扉が震えた。
息をのんで、俺たちは振り返る。扉の向こうから怒号がした。
「――開けろよ、白峰!」
初めて聞く声だったけど、誰だかすぐにわかった。
辻村だ。
「コソコソ何を隠してる! 今すぐ出てこい!」
春人は安堵と悲しみを浮かべた。
不思議を感じた俺は、隣室の走り書きを思い出した。口を利かなくなった友人が話しかけてくれたことに、春人はほっとしていたんだ。怒号の荒々しさに困窮しながらも。
あの子供っぽい走り書きは、春人と友人だったのだ。
茅の耳を塞いで、春人は深呼吸をした。目を伏せて覚悟を決めると、切り替えの早い俳優のように、冷ややかな声を張り上げる。
「何言ってるの。だんまりは止めたわけ」
「気に入らないことがあるなら直接言えよ! 点呼だってあるんだ。久保谷や清史郎にまで迷惑かけるなよな」
「レンレン、俺は別に……」
「いいから、鍵を開けろ!」
「嫌だ」
ドンッ。蹴り付けられた扉が震える。怯えたと言うよりも、傷ついた顔をして、春人は身を竦めた。
長い沈黙の後、辻村が低く呟く。
最終尋問の響きだった。
「……顔も見たくないほど、俺が気に入らないのか」
隠しきれない傷心の色に、春人が目を見開く。待ち望んだ和解を迎え入れたいはずなのに、彼は歯切れ悪く囁いた。
「そうじゃないけど……」
「だったら、部屋に戻れよ。ちゃんとおまえの話を聞くから」
「明日には戻るよ。今夜は清史郎と約束があって……」
「なんの約束だよ。何か隠してるのか?」
「隠してなんかないよ。その……。まだ気分じゃないだけ」
「調子に乗るんじゃねえぞ!」
荒々しい怒号と共に、一際強く扉が揺れる。
泣き出しそうな顔で、春人は唇を結んだ。彼が堪えた言葉が想像できる。違うんだ。ごめんね。仲直りしたいんだよ。
――扉を開けないのは俺のせいだ。
友人たちから、彼を孤立させているのは俺だ。
俺を庇ってくれた先生。彼が一人ぼっちになればいいと望んだ。同じことを春人に望むのか。
「……辻村。明日ちゃんと話をするから……」
「もういい。……二度と帰ってくるな」
「レンレン、言い過ぎ……」
「教師に媚びて、部屋替えでも何でもして貰え!」
本当は好きなんだ――春人はそう言っていた。
先生もきっと、そうだったんだろう。俺に蝕まれた長い時間の中に、彼女と行きたい場所も、友達と話したい日もあったはずだ。俺と関わったことで、あの人は無数のものを失った。
煙管の煙。女郎蜘蛛の金色の巣。危うい罠を投げる眼差し。
間違えていた。蜘蛛は俺の方だ。
破滅の糸を撒き散らして、恩人も敵も餌にする。
通りすがった人々を、一人漏らさず巻き込んで。
「もういいよ」
春人に囁いて、俺は靴を履いた。彼が振りむくのを待たずに、駆け出して窓を飛び越える。
「鉄平……!」
雪を散らして、着地する。激しい吹雪が息を塞いだ。暗い空を見上げて、俺は走り出す。
もっと早くこうすれば良かった。俺はここにいるべきじゃなかったんだ。
優しくしてくれた清史郎や春人に、俺はいるだけで迷惑をかけてしまう。わかっているつもりで、わかっていなかった。一人ぼっちの俺の味方をしたら、あいつらが一人ぼっちになってしまうこと。
「………ッ」
学生寮を飛び出した瞬間、人にぶつかってよろめいた。懐中電灯を手放して転んだのは、火傷の男だった。
「君は……」
俺は男を組み敷いて、襟首を締めあげる。騒ぐんじゃねえよ、久しぶりにドスをきかせた。
「もう出ていく。大事にするな」
俺は上着の中に、清史郎の制服を着たままだった。襟元を確認して、傷のない男の反面が歪む。
「……ここで何をしていたんですか」
「黙ってろ」
「悪いことをしたなら、償うべきです。君のために」
コソコソと学校施設をうろつく俺に、犯罪の匂いを感じたんだろう。
俺は出来るだけ、悪どい笑い方をした。
「ム所なら入ったさ。――だけど、なあ、償いって何なんだよ」
黒い空から、狂ったような粉雪が落ちてくる。
雪はあっという間に、男の胸に降り積もった。男は何も言わずに目を細めている。俺の嘲笑は長くもたず、情けなく頬が歪んだ。
顔を隠すようにして、俺は立ち上がる。走り出した俺の背中に、男は静かに告げた。
「戻って来ないで下さい。次はもう見逃せません」
親切のつもりなのか、彼の懐中電灯の光は、いつまでも俺の行く道を照らしていた。
白い光の輪が、安っぽく吹雪を切り取っている。春人と清史郎と別れることが何よりつらかった。二人のことが本当に好きだったから。
あかずの間に立ち寄って、少ない荷物をかき集めた。
数枚の写真。腕時計。携帯。俺の命を繋ぐ、盗んだ大量のドラッグ。
落ち着いた場所に着いてから、清史郎の制服は送って返そう。今は一刻も早く、この土地を離れたかった。俺の気持ちが変わってしまう前に。
駅までの山道は白く長かった。行く当てはない。売人たちに見つからずに、ドラッグを売って稼げるところ。ああ、俺はだめな人間だ。自分を堕落させたドラッグを、他人に売って生計を立てている。
それでも、纏まった金が溜まれば、こんな俺を迎え入れてくれるだろうか。あの玄関――克明に思い出せるあの風景。あの場所に立つ日を夢見ている。
木目調の靴箱の上に並んだ、玄関用の芳香剤。旅行先で買ったトレイには印鑑と鍵。傘が詰め込まれた傘立ての隣には、自転車の空気入れ。ああ。あの場所に辿り着きたい。
母さんの好みの柄の玄関マット。履き古したスリッパ。帰りたい。父さんの革靴も、俺のローファーも、知らないうちに母さんが磨いてくれていた。母の日に贈った安い造花も、誇らしげにあの玄関に飾ってくれていた。まだ思い出せる。覚えてる。夏から置きっぱなしの虫よけスプレー。背が伸び始めてから俺が換えるようになった玄関の照明。幼い頃、酔っぱらった父さんの土産を受け取るのも、あの玄関だった。ああ。
今はこんなに遠い。どうして、こんな所まで来てしまったんだろう。合わせる顔というやつを支度するために、何度過ちを犯すのだろう。
わかっている。ごめんなさいという勇気が俺にはなかった。手ぶらでは言えなかった。先生、言えなかったんだよ。
役者としての足掛かりを得るまで、夢を打ち明けられなかったように。恩を返せる何かを手に入れるまで、真っ直ぐ家には帰れなかった。こんなにも、俺は身一つでいられない。俺に翼があったなら。蹄があったなら。貴方たちが誇れるものが、俺に欠片でもあったなら。
白い闇は果てしなく、凍える体は苦痛だった。打ち捨てる方が容易いほど、俺の人生には何もない。
麻痺した足を止め、雪の中に倒れる。苦しかった。苦しみを忘れる手段を俺は知っていた。それを選択してしまう俺の弱さも。
かじかんだ指は震えが収まらず、時間をかけて俺は袋を開けた。粉雪が入りこまないように、体を丸めて袋の中身を守る。指を押し当てて、塩のようなそれを舐めた。自分の姿を想像してみじめさに俺は笑った。
捨てられなかった注射器に、雪をすくって詰め込む。ライターの火で焙り、両手で包みこみ、息を吹きかけて雪を溶かした。気が遠くなるような時間だった。俺は待ち焦がれていた。ドラッグをやり始めた時は、何かを始めるために、この時間を待ち焦がれていた。今は逆だ。何かを終わらせるために、この時間を待ち焦がれる。俺が終わらせてきたものは俺の現実だった。今も。
凍える素肌をめくりあげ、暗闇に目を凝らす。大丈夫だ。俺にはわかる。脈をさぐりながら、俺は深呼吸した。どこに何があるか、俺にはわかっている。
針が皮膚を貫く痛みを感じて、俺はほっと息を吐いた。喜びでも解放感でもなく、ただほっとしていた。
家に帰る夢を見た時と、同じ安堵がそこにはあった。
……懐中電灯の光が近づいてくる。
大きな木の根元に、俺は倒れ込んでいた。光の輪と足音が近づく。
ヤクザでもなく、清史郎でもなく、警察ならいいと思った。俺は塀の中にいるべきだ。
雪の中を歩いてきたのは先生だった。
上着も羽織らず、あの頃よく見たセーターとジーンズを着ている。俺が好きな色のセーターだ。
先生は隣に腰かけて、俺に笑いかけた。先生の顔はきれいだった。傷一つなく。
「こんなところにいたんだ。ずっと探してたんだよ」
ごめんなさい、俺は心の中で唱えた。
「あの子犬、可愛がって貰えそうだったよ。いいおうちで良かったね」
「本当は俺が飼いたかったな」
やっと、本当のことが言えた。
熱い涙がとめどなく溢れて、闇に降る雪のように、無限に流れ落ちていく。
大きくなった背中を震わせて、俺は号泣した。
「じっと俺の目を見上げて、俺の後をついてきたんだ。あいつは俺が好きだったのに、よそに預けられて、どう思っただろう」
眉を下げて、先生は微笑んでいた。
「あの犬がかわいそうだ。俺は名前を考えてたのに、一度も呼んであげなかった。俺のものにならないってわかってたから」
「古川君」
先生が俺を呼んだ。切ない嗚咽がこみあげて、俺を悲しみに包み込む。
吹き荒れる雪の一つ一つが、先生の声で俺を呼んでいる気がした。
白く埋もれる世界に吸い込まれていく。
「もう帰ろうよ、古川君……」
薄目で見上げた夜空は、ダイヤモンドのように輝いていた。