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ススム

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春人は色っぽい男だった。

こう表現するまで、俺はだいぶ時間がかかった。春人は年下の男子高校生だ。最初に会った時は、いかにもミッション系の名門学校の生徒だなと思った。大人しそうだし、利口そうで、上品そうだった。聖書を読んでアーメンと祈る姿がぴったりくる、聞きわけのいい坊やという気がした。

だけど、話をするうちに印象は変わってきた。したたかで皮肉げな所もあるし、どこで覚えたのか煙草も巧く吸う。洗練された都会っぽさもあるし、慎み深さを装いながら話術は大胆だった。

春人と会話する時、気分のいい緊張を覚えた。甘やかな興奮もあった。顔は整っているけどアガってしまうほどの美形でもない。華奢な体つきだから、威圧感もない。彼が特殊な印象を与える理由はなんだろう、考え続けてようやくわかった。

この雰囲気の正体は色気だ。

「春人は色気があるよな」

もやもやした印象が一言でまとまったのが嬉しくて、俺は春人にそう言った。

瞬間、すいっと目を細めて、春人が不機嫌に微笑む。彼はいつも怒る手前に、こういう顔をする。

滲む敵意が牽制のつもりなら、逆効果じゃないかなと思う。ふわりと漂う色香に刃が混ざって、妖しげなものになった。

「どういう意味?」

「怒るなよ。なんていうか、雰囲気に……」

「雰囲気に」

春人は声を低めた。いよいよ彼は不機嫌だった。

彼の容姿も雰囲気も俺は好きだったから、評価を不快がられて逆に驚いた。役者の世界では演技力も大事だけど「キャラ立ち」が重要だ。その人物しか持たない独特の空気が、立身出世に繋がる。ナンバーワンよりオンリーワンって奴。有名な役者には必ず、彼らにしかない雰囲気がある。

俺はもう一度、力強く称賛した。

「雰囲気に色気があるなと思ってさ。言われない?」

「ホームレスなんてやってると、審美眼が狂ってくるんだね」

「女っぽいって言ってるわけじゃないよ。色っぽいって言ってるんだ。褒め言葉だよ」

「この話題まだ続けるの、鉄平」

「色っぽいって言われるの嫌なのか?」

「いいわけがない」

「どうして。何か問題でもあった? 男子校だから……」

ぱたんと雑誌を閉じて、春人は立ち上がった。

冷たく見下す眼差しにも、匂い立つような色香がある。怒らせることよりも、軽蔑されることに恐怖を感じさせる目つきだ。

鞄を肩に掛けて、春人は背を向けた。見返りの視線は劇の一幕のように、俺を惹きつける。完成された立ち振る舞い。

「鈍感みたいだから、口に出して言ってあげるよ。――気分が悪いから帰る」

台詞回しが気に入って、俺は頬を緩めた。この時の俺は知らなかった。冗句や賞賛の垣根を越えた所で、彼が過去に性犯罪の被害者になっていたこと。似たような事件に遭遇し続けていたこと。

慌てた振りをして、春人の腕を掴む。彼が許すのを知りながら、俺は申し訳なさそうに言った。

「悪かったって、もう言わない。でも、最後に一つだけ話してもいい?」

眉を上げて笑いながら、春人は首を傾げた。

見上げる目は俺をもう許している。気のきいた言葉が出てくるか、待ちましょうか――そんな冗談めいた駆け引きの間。

「春人みたいな人を知ってるんだ。俺はその人が好きだった。だから、褒めてるつもりで言ったんだよ」

「どんな人?」

「名前も知らない。知り合いの人の家で煙管を吸ってた。煙管って知ってる?」

興味を示して、春人が微笑む。

「知ってるよ。煙管煙草でしょう。おじいさん?」

「いや、若い人」

「珍しいね。若い人が煙管煙草なんて」

「そうなんだ。普通は若い奴が吸っても似合わないだろ。粋がってる感じがしてさ。でも、その人には似合ってた。生まれた時から煙管をふかして、寝そべっていたみたいに」

「格好良いな」

「だろ? 春人も同じ雰囲気がするなと思ったんだ。それだけだよ」

機嫌を取りながら、彼の鞄を丁重に取り上げた。慇懃無礼な俺の動作に、肩を竦めて春人が笑う。

「春人も煙管が似合う。きっと、形負けしないで馴染むよ」

「それは褒め言葉かも」

「だろう」

「帰ろうと思ったけど、一服する間、ここにいてあげようかな」

顎を撫でつけながら、春人はとぼけた言い方をした。暗に煙草をねだられて俺は笑い出す。くしゃくしゃのケースから、煙草を一本引き抜いて渡した。

「この前、俺があげたのが初めて?」

「どうかな」

「今さら優等生ぶるなよ。悪い子だって知ってるよ」

「ホームレスを匿っちゃうようなね」

「初めて教えたのが俺ならいい。だけど、慣れてたな」

「痩せ我慢したのかもよ」

俺の気分を良くするために、春人は笑っている。煙草を挟む指は白く長い。煙管を使いこなしたあの人の指先を思い出す。

「同室の奴が吸ってたから、なんとなくかな……。親元を離れて少し悪さもしてみたかったし」

「ご両親、厳しいのか」

「全然甘いよ。羽目を外しなさいって言われるくらい。でも、心配かけたくないからさ」

「寮暮らしになって、おりこうさんから脱出してみたんだな」

笑いながら、俺は煙草に火を付けた。外から気付かれないように、少しだけ窓を開く。勝手に間借りしてる部屋だから、窓辺に人影があったらいけないのだ。

凍える風と交換に、白い煙が逃げていく。

「寮ってどんな感じ?」

「毎日修学旅行みたいな感じ。プライベートはこの部屋の方があるよ」

「相部屋なんだろ? どんな奴と暮らしてる?」

「嫌な奴」

春人の回答は明快だった。煙にむせながら、俺は笑いだす。

「カーテンを閉めたベッドの中だけがプライベート空間なんだけど、平気で踏みこんでくるからね。そのクセ、自分が踏みこまれると怒るの。怒ると殴りかかってくるしさ。背が高くて、体格のいい奴で……」

「名前は?」

「辻村」

「辻村、怖いな」

俺は苦笑した。学生の頃、そんな奴がクラスにいたら、俺も苦手だったと思う。高校生の頃はケンカもしたことのない目立たない学生だった。

春人は小さく笑って、煙草の先をじっと見つめた。口にしたばかりの批判を、後悔するような沈黙だった。

憂いげに目を伏せ、ぽつりと呟く。

「……本当は好きなんだ」

「だと思った」

俺は頬を緩めた。

春人に陰口は似合わない。情けなく眉を下げて、彼は缶タイプの灰皿にそっと灰を落とした。埃にまみれた部屋に佇む彼は、置き忘れられた古美術のようだった。

「なんでかなあ。格好良いなと思う時もあるんだよ。ありがとうとか、すごいなとか。でも、馬鹿にされると気が滅入っちゃってさ……」

「馬鹿にされるのか? 春人が?」

「されるよ、全然」

「勇気あるな、そいつ」

俺なら到底出来ない。不愉快なことをしたら貴方を軽蔑しますよ、というサインを春人は送って来る。彼と口論になって、勝てる気はあまりしない。

煙管を握る白い手を思い出す。笑みを含んだ口元、危うい罠に誘う眼差し。

色気を含んだ眼差しの前で、人の理性は狂い出す。身を滅ぼすのも厭わず見栄を張ったり、空威張りで自分を大きく見せようとしたり……。

物憂げなため息が聞こえた。

「今もケンカ中。他の生徒を炊きつけて、俺を聖母役にしようとするんだもん」

「聖母役って、全校生徒の投票で決めるとか言うあれ?」

「そう。絶対やりたくないのに、何でいつもそういうことするんだろう……」

吹きすさぶ風が、あっという間に室温を下げた。足踏みをしながら、煙草を消して窓を閉める。

肩を落とした春人の背を叩いて、俺は笑いかけた。

「寒くならないうちに、もう帰りなよ。いつも湯たんぽとコーヒー差し入れありがとう」

気温が下がり始めてから、春人と清史郎は水筒に入れた熱いコーヒーと、大きな湯たんぽを毎日届けてくれた。電気の通らない部屋で、俺が一晩越せるようにと。

「明日の夜から寒波が来るんだって」

心配そうに春人が呟いた。

「そのために毛布を集めに行くって、清史郎が言ってたんだけど。結局連絡なかったな。だめだったのかも……」

「大丈夫だよ、寒波くらい。北海道にだってホームレスはいるし」

「明日の放課後、布団を買いに行くね。布団ぐらい俺の貯金でも買えるし」

「金ならあるよ」

春人は不思議そうに瞬いた。唇を開きかけて、遠慮して閉じる。だったら、なんでホームレスなんか――そう尋ねようとして、思い当たったんだろう。

家に帰れない理由はいくらでもある。

別れを告げた春人を、俺は窓から見守った。手を振りかけて、はっと姿を隠す。

作業服を着た男が、この部屋を見上げていた。

建設現場もないのに工事関係者とは思えない。施設の管理者だろうか。まさか、追手じゃないだろうな。

やがて男は目を逸らし、春人と同じ方向へ進んで行った。安堵して俺は煙草を咥える。

今日は春人に嘘を吐いた。彼女が煙管で吸っていたのは、煙草ではなくマリファナだ。

透き通るような白い肌の人だった。



























彼女に会ったのはミチオさんの自宅だ。俺たちはたいがいそこでたむろってた。

飲まされすぎて人の輪から抜け出した俺は、部屋の隅に一人でいる彼女を見つけた。彼女は煙管を片手に、インドっぽい柄のクッションに凭れていた。

深く煙管を吸いこんで、彼女はゆったりと微笑んだ。

「吸ってみる?」

その一言でわかった。これは麻薬だ。

劇団員がドラッグをやっていることは知っていたけど、俺は一度も手を出したことがなかった。ヘタレだと笑われても、いけないことだとわかっていたし、法律を犯して廃人になるのはまっぴらだった。

断り文句を探す俺を、彼女は伏せがちな瞼で見つめて、口元に笑みを含んだ。目の細い、お世辞にも美人とはいえない人だったが、すこぶる色気があった。

酔っていたせいかもしれない。急に彼女にだけは笑われたくない気持ちになった。それに、鼻から吸い込んだり、注射を打ったりする奴はみっともない気がしたけど、煙管というのは格好良かった。

少しだけ――俺は答えた。ほんの少しだけ。

柔らかい口元がくすりと動いて、彼女は手ずから煙管を咥えさせた。

目眩がした。彼女に恋したわけでもない。欲情したわけでもないのに。

「怖くないのよ」

危険で甘美な声が頭を痺れさせる。

俺は当時劇団に好きな娘がいたんだけど、気づいたらミチオさんの家の二階で、彼女と初体験をすませていた。階段を下りた途端、仲間から拍手喝采を受けて、とても恥ずかしかった。

失った人生を思い出す時、いくつかの分岐点が見える。劇団に誘われた時。先生の家に行った時。大学に落ちた時。覚醒剤に手を出してしまった時。かっぱらいの手伝いをした時……。彼女がドラッグとセックスを教えてくれた日も、もちろん重要な分岐点の一つだ。

あの日以外、彼女には会っていない。強がりではなく、会いたいとも思わない。マリファナの煙が見せた幻だった気もする。

春人は彼女に似ていた。顔の造りじゃない。危うい色気を漂わせた、罠に誘うような眼差しが。

その視線の前で、人々は身を滅ぼしても、見栄を張ってしまうのだろう。

決して正気ではいられない。女郎蜘蛛の金色の巣に見惚れて、捕らわれる虫たちのように。

数秒の寵愛のために、目の色を変えて地獄のパレードをする。

「……寒……」

仕事を終えて俺は教員寮に戻った。春人が教えてくれた通り、寒波は本当にやってきそうだった。真夜中の風は激しく、冷たく、耳が千切れそうだ。一秒でも早く暖を取りたい。

教員寮に駆けこもうとして、俺は入口を素通りした。夕方に見た作業服の男が、懐中電灯を手に夜道を歩いていたからだ。

こんな時に散歩をしているなんて。やはり、施設の管理者だろうか。

早く通り過ぎてくれないかな。振り返ると、男と目があった。懐中電灯に映し出された容貌に息をのむ。

整った半面を残して、男の顔は醜く焼け爛れていた。

真夜中に醜面を見た恐怖と、純粋な同情を俺は感じた。俺たちの足元を、枯れ葉が乱暴に押し流されて行く。その流れは早く、真夜中ごと吹き飛んでしまいそうだ。

「その顔の傷はどうしたんですか」

俺の質問に彼は驚いていた。よく見ると、先生と同じ歳くらいだ。認識した途端、ざくりと心臓から血が溢れる気がした。

先生と同じ年くらいの、先生と同じような傷がある人。

「その傷で人生を失いましたか」

俺の声は懇願のようだった。同情したはずの相手は、気の毒そうに俺を見つめている。戸惑いがちに目を伏せ、彼は深く帽子のつばを下げた。

「……雪が降ると思います」

悲しくなるほど低い声だった。

「家に帰った方がいいですよ」

彼の声は一瞬にして、この町を真っ白に埋めた。雪原よりも雪原らしく、ここには何もなかった。

彼と別れて俺は一人で泣いた。家に帰った方がいいですよ。知っていても、凍えた手足を引きずって、彷徨うしかない。

自分がみじめだった。早く家に帰りたかった。人目を忍んで遠回りをしなければならない場所ではなく。

吹き荒れる風に、石つぶてのような雪が混じり始める。



























寒波はその夜にやって来やがった。

ゴウゴウと風が鳴いて、窓ガラスの隙間から冷風が吹きつける。どこかから粉雪も入りこんでいた。窓の外は真っ白で、1メートル先も見えない。

心の中で天気予報を呪いながら、俺は湯たんぽを抱えて震え続けた。床も壁も空気も氷みたいだ。寒い。風があるから余計に寒い。予報通り一日後だったら、俺はカイロで完全防備していたのに。

鼻水を垂らしながら、丸まって爪先を握り締めた。堪え忍ぶには極寒の夜は長すぎた。

「鉄平、大丈夫か!?」

結局、一睡も出来ずに夜を明かすと、雪まみれの清史郎がやってきた。同じように雪まみれの賢太郎が、彼の足元で雪を払っている。

清史郎は湯たんぽを鞄から取り出し、新しい水筒を押し付けた。そして、思いついたように、俺の肩を抱いて叫ぶ。

「死ぬな! 死ぬな、鉄平えええ!」

「洒落にならない……」

歯の根を鳴らして、俺は湯たんぽにしがみついた。清史郎はけろりと笑って、すぐに真剣な顔をする。

「服脱いで。俺の制服に着替えて」

「着替え? 大丈夫だ、濡れてないよ」

「違えよ。学生寮に隠れてろ。春人が手引きすっから」

「無理だよ、バレる。昨日も管理人っぽい人に見られたんだ」

「どんな奴?」

「顔に火傷がある……」

「ああ。落合さんは優しいから大丈夫だよ」

氷点下の部屋で服を脱ぎながら、清史郎は気軽に頷いた。湯たんぽを抱きしめながら、顔の広い奴だと感心する。

素肌になった清史郎の肌が、あっと言う間に粟立つ。壊れたロボットみたいに、清史郎はぶるぶる震えて、俺も慌てて服を脱いだ。

「おまえは? 学校に行かないのか?」

「か、寒波が過ぎるまで、鉄平が住める所探しに行く。当てはあるんだ。お金かかるかもだけど俺たちが何とかするよ」

「いいよ。金ならあるんだ」

「なんで?」

制服のズボンを脱ぎながら、清史郎が顔を上げた。シャツを羽織って、彼の視線から逃げる。

「バイトしてるって言っただろ」

「悪いバイトか」

「違う。早く服着ろよ。風邪引くぞ」

着替えを再開しながら、清史郎は目を細めた。怖い顔だった。

「鉄平。俺、嘘吐く奴嫌いだからな」

「おまえに嘘は吐かないよ」

胸を痛めながら、俺は嘘を重ねた。清史郎には悪いけれど、盗んだドラッグが俺の唯一の拠り所だった。これを元手に大金を蓄えることが出来れば、仕事で一山当てたと言って、家に帰れるかもしれない。

せめてものお詫びにと、先生にも謝りに行ける。

何も持たないままじゃ帰れない。何も持たずにごめんなさいなんて、先生に言えるわけがない。

俺はいつもこんなことを考えている。少しでも良く見られようと、余計なことをしてしまったり、遠回りをしてしまったり。愛想を尽かされるのを怖がって、平気な振りをしてしまったり。

そして、平気な振りを装うために、人生を費やしてしまうんだ。

最終的に嘘がバレて、ドラッグの大半を取り上げられることになるんだけど、今は問題なく清史郎の目をやりすごせていた。念を押すように、清史郎は告げた。

「春人は鉄平を心配して、寝ないで窓の外見てたんだからな。鉄平にはわからないかもしれないけど、あいつが寝ないなんて相当だからな」

「俺のことなんか気にしなくていいのに……」

「ばかちんが。鉄平は俺が一人で寒い所にいる時、ベッドでゴロゴロ出来んのかよ」

袖を通した清史郎の制服は少し小さく、湿って氷のようだった。彼の献身を俺は素直に感謝した。

「俺の部屋に春人がいるから。瞠と交換して貰ったんだ。煉慈とケンカ中って言うし、それを口実にしてさ」

「みはる? れんじ?」

「春人は今日学校休むって。外がすごい風だから、鉄平がいてもわかんねえよ。学生寮の近くに行ったら、春人の携帯に連絡して。俺の携帯貸しておいてやる。鉄平の電話できないだろ」

「携帯なくて大丈夫なのか?」

「うん。あ、待って!」

清史郎は無表情に携帯を操作した。ピーッと短い消去音が鳴る。

言わなくても良かったのに、清史郎は隠しごとを打ち明けるように俺を見た。

「……あいつの連絡先消した」

あいつが誰を指すのか俺はわかっていた。沈黙の後、静かに伝える。

「悪戯なんかしないよ。勝手に連絡したりも」

「そうじゃない。短縮だったから、恥ずかしい」

恥ずかしいという感情が俺にはわからなかった。清史郎の表情は悔しげだ。冷淡なため息をついて、彼は携帯を放ってよこした。

「一回もかかって来なかったのにな。俺はがんがん掛けてやったけど」

「そうなのか」

「うん。でも、知らない奴みたいだった。何度話しても。なあ、鉄平。同じ人間がいるのに、同じ人間がいなくなることってあるんだな」

俺は清史郎の話を思い出した。彼の言う"あいつ"は昔、大人になりたくないと言って泣いたそうだ。

先生を騙して情報を引き出し、会ったこともない俺の父を中傷する記事を書いて、信用を地に落とした。そのやり口は、狡猾な大人そのものなのに。

あの記事さえなければ――そんな逆恨みから"あいつ"に仕返しするつもりで、俺は清史郎に会いに来た。だけど、清史郎に何かしても復讐にはならなかったかもしれない。

"あいつ"は記事にした俺と同じくらい、弟にも関心が無いみたいだったから。

今では俺よりも、清史郎の方が"あいつ"を憎んでいる。

「鉄平。前にも言ったけど、あいつのことは内緒にして欲しいんだ。友達に知られたくない。……俺の身内がどんな恥ずかしい人間か」

「話さないよ」

「ありがとう」

唇を引き結んで、清史郎は頷いた。ニット帽を目深にかぶり、尻もちをつきながら、スノーブーツを履いて出かける。彼が扉を開けると、轟音と共に雪が吹きこんできた。

玄関を出る直前に、俺は清史郎の肩を掴んだ。

「俺の方だよ。ありがとう」

「…………」

「会ったばかりの俺のために、ここまでしてくれてありがとう」

清史郎は嬉しそうに笑って、両腕で俺を抱き締めた。ハイタッチをして、真っ白な世界に駆けだしていく。

清史郎の携帯をポケットに入れ、俺も襟を立てて歩き出した。都会でこんな雪は見たことがなかった。降り積もる雪に白い世界になったとしても、建物の輪郭が町の気配を残す。

真っ白になった山の道は途方もなかった。行き先が見えない。

白い道の果てがわからない。
















学生寮に辿り着いた時、俺は汗だくだった。カチカチに凍えると思って着込んできたのに、制服のシャツが汗でびっしょりだ。

顔面だけが氷みたいだった。手袋ごしに携帯を操作して春人に電話をかける。発信しただけで、春人は学生寮から飛び出してきた。雪に躓きながら、俺の腕を引く。

「こっち」

春人は学生寮の裏に俺を案内した。真っ白な敷地に二つの足跡が残される。ある窓の前に立って春人は背伸びをした。窓の雪をなぞるように手を伸ばすと、きゅるきゅると音を立てて窓が開く。

「ここから入って。俺は玄関から戻る」

「ごめん。迷惑をかけて」

何の問題もないように春人は首を振って、心配そうに俺を見上げた。

「風邪ひかなかった? 大丈夫?」

優しい……。俺はじんとした。清史郎も春人も本当にいい奴だ。

窓枠に腕を掛けて乗り上げる。手早く長靴を脱いで、部屋の中に飛び降りた。

室内は10畳くらいのスペースで、寝台列車のような二段ベットと、二つ並んだ机が両壁に置かれていた。大きなクローゼットの前には、パイプハンガーがあって制服や上着が掛かっている。窓の下には電気ポットやゲーム機や雑誌が積まれたワゴンがあった。俺は危うく踏み潰す所だった。

部屋の中は天国のように暖かかった。氷が溶けだしたみたいに鼻水が溢れる。何度も鼻を噛みながら、濡れた上着を脱いでいると、春人が部屋にやってきた。春人は青ざめていた。

「見つからなかった?」

「大丈夫だと思う。ここは清史郎の部屋」

「うん。それより、鉄平。大変なことを聞……」

春人が言いかけた時、玄関の扉が音を立てた。

慌てて扉に飛びついて、間一髪で春人は鍵を閉める。玄関の向こう側からは、明るい声が聞こえてきた。

「ハルたん。やっぱり、寮待機になったって」

「へ、へえ……」

「この調子じゃ休校になるんじゃねえ?」

顔を見合わせて、俺たちは青ざめた。

清史郎の作戦では、学生たちが学校に登校してる間だけ、寮の部屋を間借りする予定だった。寮は無人になるし、暴風で音は聞こえないからと。

俺は無言のまま、親指で窓を指した。帰るよ、と伝える。春人は大きく首を振って、人差指でベッドを示す。中に潜れだ。

「つーか、ドア開けて貰っていい? 着替えてる? 清ちゃんは寝てんの?」

「えっと……。そうなんだよね」

春人は玄関先で服を脱ぎ始めた。俺は脱いだ服をベッドの下に詰め込んで、頭から布団を被る。

「何か欲しいものでもあるの? 取って渡すよ」

のんびりした声を発しながら、手品の素早さで春人がシャツのボタンを外す。蹴飛ばすようにジーンズを脱ぎ棄てて、俺の長靴を机の下に放りこんだ。

「DS取って。暇つぶししてようと思って。ていうか、ハルたん、部屋帰んないの?」

「帰んないなあ」

盗塁するランナーのような俊敏さで、春人は小型ゲーム機を掘り起こした。

「レンレンだって反省してるよ。謝れないのはいつものことじゃんか。部屋に戻ってあげなって」

「……俺がここにいたら迷惑?」

準備を整えて、春人は少しだけ扉を開けた。吐息混じりの声はしっとりと憂いを含んで、相手の同情を上手に誘っている。さらに春人がシャツと下着姿だったので、相手は慌てた反応をした。

「そうじゃないけど! ごめん、閉めるな。寒いよな」

「あ、DS。ソフトはこれでいい?」

白い手を扉の隙間から差し出す。

「うん、ありがとう。……あの。あのさ……」

「なあに?」

うっとりするような声で春人は微笑した。怖くないのよ。彼女と同じ声。スパイ映画を見るように、布団の隙間から春人の勇戦をわくわくと覗く。

「ううん、なんでもない。なんかあったら連絡して」

そう言って、相手は消えた。扉を閉めた春人は、優雅さを投げ捨てて、ぐしゃぐしゃと頭を掻いた。

「バレたな」

「バレた?」

「瞠は勘がいいんだ。俺に気を使って、無理言わないでくれただけ。ああ、どうしよう。ていうか、寒……」

華奢な腕をさすって、春人は脱いだ服を着込む。春人の肌は彼女と同じくらい白かった。不健康な青白さじゃなくて、真珠みたいに優しく透き通っている。

「清史郎に連絡してみよう。清史郎が寒波を凌げるところを探すって……」

「あいつの携帯、俺が預かってるよ」

「そうなの? ええと……。待ってて、先にあったかいお茶入れるね」

「先に服を着ろよ」

「うん」

春人は平行して事を進めた。袖を通しては、ティーバッグを取り出し、お湯を注いでは、ボタンを締めた。彼が服を着込み終えた頃、ちょうど紅茶が出来あがった。

「熱いよ、気を付けて」

「ありがとう」

熱い紅茶は芯から体を温めた。ほっとして春人を見上げると、マグを抱えたまま、ひどく悲しげに静止している。俺は驚いて、真剣に心配した。

「どうした? 大丈夫か?」

「熱くて飲めない……」

寒いのに……と春人は切なげに呟いた。俺は心から彼に同情した。真夏日にアイスを頬張りたい時も、知覚過敏が邪魔をする。物事はそういう風に出来ている。

「少し温まったら教員寮に戻るよ。休校になったらやばいだろ」

「だめだよ。車も通れないような雪なんだよ。何かあっても救急車が来れないんだ。それに、眠ってないんでしょう」

「春人も眠ってないんだろ?」

俺たちは互いのクマを確認し合った。

ベッドを背もたれに、並んでマグをすする。湯気を上げる紅茶がルビーのように輝いている。

「どうしようか……」

「迷惑はかけられないよ……」

温かい紅茶は脳みそまで解凍させていった。疲れた手足がほどけて、じんわり力を失くしていく。

これからどうすればいいのか。襲い来る眠気と戦いながら、俺たちは黙って考えた。





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