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冬の話をするのが馬鹿らしいほど、蒸し暑い真夏日だった。
「――それで、鉄平が窓から出てっちゃったんだよ。茅を抱えたまま、俺はもう頭が真っ白。ドアの向こうでは、辻村が怒ってるし」
他人のベッドに寝転びながら、俺は団扇がわりに雑誌を仰いだ。窓から覗く真っ青な空と、眩しい光、背中に滲む汗が、一昨年の冬の寒さを遠くする。
頭を起こして、ちらりと部屋の主を覗いた。ベッドの傍らに座って、テーブルのノートパソコンを見つめている。仕事でもしてるのかと思ったら、画面に並んでいるのはトランプの画像だった。
ソリティアだ。
俺は爪先で彼の肩を蹴り付けた。
「いて」
「賢太郎が聞きたいって言ったんじゃない。鉄平の話」
「聞いてたさ」
「食べきれると思ったら、胸焼けがしてきたの。――ハートのジャック、右から二番目に置けるよ」
マウスを操作して、賢太郎は振り返った。俺の踵を握って降ろす。
迷いのない鋭い両眼が、今日はぎこちなかった。鉄平の話題が近づくたび、後ろめたで彼はそうなる。だから、話を聞きたいと言われた時は驚いた。やはり限界が来たみたいだけど。
俺は苦笑して、ベッドから降りた。半ヘルとゴーグルを腕に通して、荷物を担ぐ。
「行くのか。続きを話せよ」
「また今度ね。苦い薬を飲ませに来たつもりじゃないし、薬を飲ませると貴方怒るから」
「春人」
「泊めてくれてありがとう」
「待てよ。俺からも話がある。説教だ、そこに座れ」
不機嫌な怖い声に、玄関先で足を止める。眉を上げて、俺は肩を竦めた。
「説教? 出だしを話して」
「石野のヌードモデルになっただろう」
俺は笑って身を翻した。本当に説教顔だったからおかしかった。
「春人、待てよ」
「お邪魔しました」
賢太郎が重い腰を上げた時には、もう遅く、俺は靴を履いて片手を振っていた。真夏のような青空の下に飛び出していく。
駐車場に停めたアイボリーのベスパに鍵を差し込んだ。荷物を入れて、半ヘルをかぶる。ゴーグル越しに窓を見上げると彼と目があった。
マルボロを咥えた賢太郎が、物言いたげに俺を見下ろしている。俺の目的地を知ってるから、行って来いとも、行くなとも、一緒に行くとも彼は言えない。俺は笑って手を振った。週末を利用して、俺はちょっとした冒険の最中だった。
学校から原付だけで上京したんだ。公園に立ち寄ったり、美味しそうな店に入ったり、寄り道をたくさんしながら、五時間以上かけて下の道を走ってきた。それで、昨日は賢太郎の家に泊めてもらったというわけ。
目的地は鉄平のお墓だ。
広げた地図をたたんで、俺はかわいい愛車に跨った。
気温は29度だった。焼けたアスファルトの上を、のんびりと走っていく。
あの日、鉄平が窓から消えたとき、俺はパニック寸前だった。誰も誉めてはくれないけれど、同時に飛び込んできた問題に、それなりに頑張って対処したと思う。
まず、斉木に電話した。
茅を一人にできなかった。茅はこうして落ち着いても、俺が離れると発作をぶり返すことがあったから。
「斉木? すぐに来て。玄関はだめだ、窓から」
「あんな、白峰。お外見てもらってもええか」
何があったとは聞かず、窓から招待する俺に対して、斉木は皮肉をたっぷり含んで言った。彼は常に傍観者然として、感情的になったところを見せない。
「緊急事態なんだ。急いで出かけなきゃ行けない。茅を見てて」
茅の病気を知ってるのは、俺以外には瞠と斉木だけだった。瞠は茅が苦手だから、頼むのは申し訳なくて、俺はいつも斉木を呼んでいた。
「緊急事態か知らんけど、俺には関係ないわ」
「薄情なこと言わないで」
「茅を置いてくあんたは薄情と違うんか」
ずしりと心に突き刺さった。苦く唇を噛んで俺は頷く。
「……そうだよ。文句は後で聞く。すぐに来て。清史郎の部屋だ」
ため息混じりに、斉木は電話を切った。ドアの向こうの辻村に返答しながら、俺は斉木が来るのを待つ。
数分後、開いたままの窓から人影が侵入した。へきへきとしながら斉木は雪を払い落とす。
「あーあ、あかん」
茅を見て、一言斉木はそう言った。腕を離そうとするたび、茅は俺にしがみつく。彼の頭を一度撫でて、俺は斉木を見上げた。
「ここに来て。俺の代わりに座って」
「正気か」
「手を握ってるだけでいいから。過呼吸を起こしたら、ゆっくり話しかけてなだめて」
胸の痛みを感じながら、茅の手を引きはがして、斉木の腕を握らせた。茅の視点は宙を見たまま動かない。頬を叩いても、数時間そのままのこともあるし、咳払い程度の物音で我に返ることもあった。
「早く戻って来てや。今以上嫌われたらかなわんで……」
「わかってる。ごめんね、ありがとう」
手早く上着を着込んで、俺はドアを開けた。辻村の顔を視界の端に認めながら、手早く鍵を閉める。
乱暴に腕を捕まれた。
「どこ行くんだよ、上着なんか来て!」
「辻村。君のことは嫌いじゃないし、ちゃんと話したいと思ってるんだよ」
俺は真っ直ぐに辻村を見上げた。彼の顔をまともに見るのは久しぶりだった。意志の強そうな瞳、長身のくせに文学的な風貌。
窓から鉄平を追いかけることも出来たけど、辻村とちゃんと話をして行きたかった。彼は怒っていたけど、傷ついてもいた。廊下に立ったままで風邪をひかせてしまうかもしれない。彼と仲直りをしたくないわけじゃないことだけでも、せめて伝えていきたかった。
そうか、わかった。なら後でな。――気持ちさえ通じ合えば、辻村は俺を見逃してくれると思っていた。
彼は眉を寄せ、言葉を詰まらせた。腕を掴む手が、逃がすものかとばかりに強い。
「だったら、どうしてだ。何か隠してるのか」
俺は判断を誤った。辻村は納得しなかった。視線をさまよわせて、必死に言葉を探し出す。
「……隠してなんかないよ。後で話に行くから、君の部屋で待ってて。お願いだからそうして」
「今話せよ! 何を急いでるんだ!」
「離してよ! 後で話すって言ってるじゃない」
気持ちが焦って、俺は腕を振り払おうとした。俺たちの騒ぐ声に、人が集まってくる。
「おまえが話せないなら、俺が言ってやろうか。おまえは俺が嫌なんじゃない、俺に真実を言い当てられるのが嫌なんだ」
びくりと喉が震える。辻村は怒っていた。唇の端を上げて、容赦なく嘲笑する。
炎が押し寄せるような圧迫感に身が竦む。
「おまえはただの亡霊が怖いんじゃない。弟の亡霊が怖いんだ。おまえが死なせた子供の怨霊がな」
蛍光灯が瞬いた。
雪が積もった雨どいが、みしりと音を立てる。
気が遠くなるような痛みが、音を立てずに俺を切り裂いた。
「……違うよ……」
自分の声の細さに、情けなくなる。
その一言を伝えるだけで、俺は精一杯だった。これ以上口を開いてしまったら、体の中から色んな物があふれて、割れた水風船みたいにぺしゃんこになりそうだった。
深い闇の奥に白い人影を感じる。
怖いと、認められない。ともに悪いことだ。
「……白峰……」
辻村の手の力が緩む。彼の顔を見れずに、弱い力で押しのけた。行くね、言葉はほとんど声にならなかった。
「白峰……!」
呼吸を止めて、俺は走り出した。野次馬を押しのけて、長い廊下を駆けていく。熱くなる瞼が嫌だった。
外は白い闇だ。怖い。鉄平を探さなきゃいけないのに、怖がる自分も嫌だ。
上着のポケットで携帯が鳴り響く。清史郎からだった。助けを得たように、俺は携帯を耳に押し当てた。
「清史郎!」
「遅くなってごめん。鉄平は?」
「寮にいたけど、出て行っちゃったんだ。今から探しに……」
「なんでだよ!」
清史郎は怒鳴った。
「鉄平はふらっといなくなっちゃうかもしれないんだ! だから、見ててって春人に任せたのに。鉄平がいなくなったら、春人のせいだからな!」
「ごめんね……」
手の甲で唇を押し潰す。気持ちが弱っていた所に、責める声がつらかった。
「すぐに探して。雪だしそんな遠くには行けない。俺も超特急で帰っから。怒鳴ってごめんな?」
「ううん。……あのね、清史郎」
「何?」
走り出しながら、俺は尋ねた。真っ黒な空の下、粉雪が吹雪いている。
青白い子供の姿が浮かんで、わずかに足が竦んだ。
「辻村に話してもいい? 何か隠してるって気づいてるんだ。話せばきっと、協力して貰えると思うけど……」
「だめだよ。春人にも言うつもりなかったって言ったろ」
雪原に足を踏み出して、俺は黙り込んだ。電波が乱れていく。
「煉慈なんかに知られたら、根ほり葉ほり聞かれる。困るよ。だめだって」
「……だけど、茅にも見られたんだ。お兄さんから電話があって、パニックを起こしてたから、気づかなかったかもしれないけど」
「晃弘なら平気じゃね。すぐ忘れるじゃん。俺たちが口を合わせて知らないって言えば、そうかなって思うよ」
明るい清史郎の声に、俺は寂しさを感じた。清史郎は今、鉄平が最優先なんだ。茅のことも、辻村のことも、俺のことも二の次なんだ。
俺は清史郎が好きだったから、わかったと頷いた。茅にひどいことをしても、辻村に嫌われても、清史郎にありがとうと言って欲しい自分がいた。
この雪に凍えてないか。この雪で怪我をしてないか。鉄平が心配だった。少ししか会ってないのに、こんなに鉄平が好きになっていた。清史郎から聞いたお兄さんの話に、鉄平は似てる気がした。
優しくて、ほら吹きで、穏やかに笑うひと。
ありがとう。ごめんな。鉄平は会うたびに言っていた。違うんだよ、鉄平。俺は貴方の世話が出来るのが楽しかった。貴方に会いに行くのが楽しかったんだ。
この時の気持ちを、俺が忘れなければ良かったのに。
彼の正体を知らなくても、愛することが出来た彼の本質を、見つめ続けることが出来れば。
ひどい言葉を投げつけずにすんだ。
あかずの間にも、教員寮の中にも鉄平はいなかった。白い闇の中を俺は進んでいく。強く、強く、背中に視線を感じる。
「鉄平……」
振り返るのが怖い。
「……鉄平……!」
いつの間にか雪は止み、夜風だけが強く吹いていた。巻き上げられた粉雪の中に、俺は鉄平を見つけた。
大きな木のふもと、白雪に埋まりながら、鉄平は仰向けに倒れていた。
捨てられた手袋みたいに。
「鉄平……!」
空には月があった。
大きく手を振り上げて、俺は鉄平の顔や胸を叩いた。見つけた時から、鉄平は薄目を開けていた。
彼を気づかせるためではなく、怒りや、悲しみのために、俺は彼をはたいた。
月の雪原に手のひらを打ち降ろす。
「死んだらどうするんだ……、どうするんだよ……!」
白い息が闇に溶ける。
恐ろしい景色の中で、楽しげに彼は笑っていた。
「……煙管が似合うって言ったけど……」
俺を引き寄せた体は、氷のように冷たかった。
「やっぱり、似合わないよ……。春人には、もっと……」
「……どうでもいいよ、そんなこと! 馬鹿! 大馬鹿!」
彼の胸を何度も叩いて、俺は涙ぐんだ。
横たわる鉄平の体が、枯れ葉に埋まったともを連想させた。実際に見た光景じゃないけど、心の中では10年以上見つめ続けた景色だ。
俺はもう少しで、鉄平を死なせるところだった。
鉄平に肩を貸して、雪の道を歩き出す。車の轍は全くと言っていい程なかった。
清史郎はどうやって帰ってくるんだろう。先ほどの電話を俺は後悔した。こんな夜に歩いたら危ない、帰ってこなくていいよと、伝えるべきだった。本当に俺は自分のことしか考えられない。辻村に見破られても仕方がない。
「大丈夫? 鉄平……」
「大丈夫。全然寒くないよ。……雪がきれいだな」
鉄平は笑って、月を見上げた。臨死体験でもしたのか、突き抜けたように、彼は明るかった。
「蛍が降ってくるみたいだ」
眉を寄せて、俺は空を見上げた。
粉雪は一つもなく、満月が輝いているだけだ。熱があるのかもしれない。
「歩くのしんどい? ごめんね、俺がおぶって行ければいいんだけど……」
「平気だよ。俺がおぶってあげようか? ぽんって雪に投げてあげようか?」
「何……?」
冗談か本気かわからない目で言う。手袋をしてない鉄平の手は真っ赤だった。自分の手袋を脱いで、俺は鉄平に渡す。
「手袋して」
「いいよ。はめて」
「はめてって……。もう……。手、痛くないの?」
「うん」
人の気も知らず、鉄平は上機嫌だ。彼は微笑みながら、おもむろに上着を脱ぎだした。
「春人は俺の上着を着なよ」
「いいよ、いいよ! 何言ってんの!?」
「だって、手袋がないぶ分、寒いだろう」
彼に上着を着せて、俺は額に手を当てた。かじたんだ指先ではかっても、どれくらい高熱かわからない。きっと、ひどい熱なんだ。
「鉄平。急いで部屋に帰ろう。薬もあるから」
鉄平は目の色を変えた。
「春人もやるの?」
「俺は……俺も熱があったら飲むよ。風邪引いちゃうよ、こんなとこいたら」
「風邪薬のはあんまり好きじゃないんだよ。きめた気がしないし……」
「清史郎、大丈夫かな……。あったかいところで一晩越してくれるといいけど……」
「サンタクロース」
前方を指さして、鉄平はけらけら笑いだした。
人影だ。ばっと指をおろさせて、俺は身構える。学校関係者だったらまずい。こんな時刻に散歩してるはずないと思うけれど、鉄平の腕を掴んで、真下を見て歩いた。
絵本のような雪の世界に、懐中電灯の輪がさまよう。
「白峰か?」
人影は辻村だった。
「……辻村……」
彼は黙って、雪の中を不自由そうに歩いた。彼が近づいてくるまで、俺はその場で待った。駆け寄ることも出来たけれど、何故か怒られると思って、俺は動けなかった。
俺の目の前に辿りついて、辻村は怖く目を眇めた。月と雪原が彼には似合っていた。
「どうしたの……」
「おまえを探したんだよ」
不機嫌に言い放つと、付け足すように彼は言った。
「……こんな天気に外に出る馬鹿、放っておけねえだろ」
静かに目を見開いて、俺は辻村を見つめた。
盗むように、彼も俺を横目見る。冷たい風に目を細めて、彼はマフラーで口元を隠した。辻村は何も言わなかったけど、心配して来てくれたんだとわかった。
「ありがとう……」
俺の声は素直に雪原に溶けた。弾かれたように、辻村が顔を背ける。
「勘違いするな。おまえに何かあったら、俺が悪く言われるからな。人前で言い争ったせいで、いい迷惑だぜ」
「……ごめんね」
「真に受けるなよ。……なんだよ」
ばつが悪そうに呟いて、辻村はうつむいた。俺の手元を見て瞬きをする。
「手袋は?」
「あ……」
「冷たくなってるよ。かわいそうに」
横から俺の手を取って、はあっと息を吹きかける。鉄平だった。
じろじろと彼を睨んで、辻村が眉間に皺を寄せる。
「……こいつは誰だ。三年か」
制服の襟元と、鉄平の顔を見て、辻村は尋ねた。適当な嘘を思いつく前に、鉄平が口を開く。
「三年の西純也だ。おまえ、一年だろ?」
意地悪な上級生を演じて、鉄平は口端を上げた。辻村は上級生の顔をほぼ知らない。敬語を使わない彼は上級生に嫌われていたし、彼の方でも上級生が嫌いだった。
「おまえがこいつを連れだしたのか。この悪天候に常識的なことだな」
「先輩って呼べよ、辻村」
「何をしてた。――その手袋、白峰のじゃないか」
「いいだろ」
ぶりっこするみたいなポーズをして、鉄平はくすくす笑う。俺は開いた口が塞がらないまま、掴みかかる辻村を押しとどめた。
「ごめん。先輩、熱があって……」
「こいつと何してたんだよ、白峰」
「何ってないよ。雪が降って……、散歩してみようかって」
「俺との話し合いを無視してか」
苛立ち始めた辻村に、俺は困窮した。もうケンカはしたくなかった。「恋愛相談を……」言いかけた瞬間、鉄平がしゃがみ込んだ。
足元の雪をすくって、夜空に撒き散らす。
俺も辻村も顔を上げた。
満月を浴びた雪は、きらきら光って、宝石みたいだった。
「仲直りの相談を受けてたんだよ。春人は辻村が好きだって」
辻村が目を丸くして、俺は一気に赤面した。
光る雪が、両腕を伸ばした、鉄平に降り注ぐ。辻村の気配を気にしながら、俺は鉄平の腕に飛びついた。
「な、何言ってんの! 先輩、熱があるからって……」
「隠すことないじゃないか。言ってただろ、格好良いとか、すごいと思うことだって……」
「止めてよ、言ってないって。……言ってないから!」
鉄平の口を塞いで、俺は辻村に念を押した。俺の手を外しながら、鉄平が辻村に笑いかける。
「さっきも春人は仲直りしようとしてたんだ。俺が邪魔したんだけど」
「……どうして」
「俺には仲直りが出来ないひとがいるから」
満月を見上げて鉄平は笑った。
彼の笑顔は星のように透き通って、悪意がなかった。
意味深長な呟きに、月に手を伸ばす彼を思う。彼が家に帰れないのは、家族と仲違したせいなんだろうか。
帰りにくい家の空気は、俺にも少しわかる。笑いながら息苦しく、寝ころびながら緊張する。自分の服なのに、上手く袖を通せない感覚……。
自分の家を思い出しながら、視線を感じて振り返った。コートのポケットに手を入れた辻村が、得意げに俺を見つめていた。
「ふうん」
頬が火照って、俺は汗を掻いた。辻村のふうんは色々訂正しなきゃいけない気がした。
「違うってば、誤解しないでよ。本当に違うんだって」
辻村はにやにやと笑った。いつもの頭に来る笑い方だけど、眼差しがひどく優しい。嬉しそうに、照れくさそうに、彼は歩き出した。
「おまえも素直じゃないよなあ」
余裕を見せて呟いた矢先、雪に躓いて辻村は転んだ。びっくりして、慌てて駆け寄る。辻村の腕を掴み上げながら、彼の上着についた雪を払い落した。
「大丈夫? 怪我しなかった?」
ばしり、と辻村は手を振り払った。彼の怒りを感じて、俺は目を伏せる。穏やかに話せていたと思ったのに、ちょっとしたタイミングで、元通りになってしまう。
「クソ、格好悪ィ……」
悔しげに辻村は呟いた。雪を蹴飛ばしながら鉄平が笑う。
「春人の前で格好悪いの、恥ずかしいよな」
「なんで?」
意味がわからず、俺は聞き返した。
立ち上がった辻村が、じろっと俺を睨む。目元が赤く染まっていた。
「……ダサいところみたら、おまえ、笑うだろ」
子供じみた口調に、俺は目を丸くした。笑わないよと、偽りなく首を振る。辻村は信用せずに、マフラーを巻き直して歩いた。
「だから、やりすぎるんだよ。おまえとは。俺が負けたら絶対笑うし……」
「笑うのは辻村の方じゃない……」
言い争う俺たちを見て、鉄平が明るく笑った。眩しそうに目を細めて、俺の肩に腕を回す。
「ほらな、春人には煙管が似合うよ」
「煙管……? どう関係あるの? さっきは似合わないって言ってたよ」
「無意識だなんて怖い奴だな」
「おい」
辻村が俺を呼んで、脱いだ手袋を押し付けた。手袋のない俺を気にしてくれたんだろう。
不器用な優しさに感謝しながら、寒い思いをさせて申し訳なく感じた。彼は作家だし、手を冷やしたら、良くないかもしれない。だけど、突き返したら、話がまたこじれてしまう。
迷っている俺を見て、辻村がにやっと笑った。
「貸してやるから、素直に俺のこと褒めてみろよ」
辻村はちやほやされるのが好きだ。それにしても、ストレートな要求だった。
手袋をはめながら、俺は冗談めかして笑う。くすぐったいような、気恥ずかしさを隠して。
「条件が高過ぎじゃない?」
「いいじゃないか、言えよ。マフラーも欲しいならやるぜ」
「いいって! 待って、ええと……」
自然に笑い合いながら、俺たちは雪の上を歩いた。楽しくて優しい時間だった。
不意に視界から消えた鉄平を振り返って、二人同時に笑いだす。
「何やってるんだ、あいつ」
「先輩、風邪ひくよ」
月に手を伸ばして、鉄平はいつまでも、くるくると踊っていた。