Catch Me If You Can ! (from S)
Catch Me If You Can ! (from S)
天井裏から、兄ちゃんの部屋を覗く。
兄ちゃんの部屋には、まだ風船がひしめいていた。風船を掻きわけて、兄ちゃんは仕事に出かけた。
帰ってきたら、風船をどうするつもりなんだろう。俺はそれが楽しみだった。
「こんばんはー」
ガチャリとドアが開いて、瞠の声がした。
俺は耳を疑う。
聞こえた声は、瞠だけじゃなかった。
「お邪魔しま……。何この風船」と春人。
「パーティか? 清史郎はどこだよ」と煉慈。
「幼児番組でも始めるの」と咲。
「清史郎はどこにいるんですか」と晃弘。
兄ちゃんはみんなを押し込んで、重々しげに告げた。
「適当な所に座ってくれ」
「おい、ギャグだよな。どこに座れって?」
「清史郎はどこに行ったんだ? あいつがいるって言うから来たのに」
「清史郎はいる」
兄ちゃんは断言した。
「だが、俺も姿はまだ見てない」
「どういうこと……?」
「いいか。朝起きたら、部屋がこの状態だったんだ。その前はエアコンが暖房になってて、その前は浴槽で味噌汁が作ってあった」
こんなに面白いネタなのに、誰も笑わなかった。
しんと静まり返る。
「……あいつがいるな」
生唾を飲み込んで、真剣に瞠が頷いた。
「そうだろう」
「手分けして探せばいいのか?」
「いや」
兄ちゃんは片手を上げて、みんなの顔を見渡した。
「盛り上がってくれ」
「は?」
「盛り上がってれば、あいつは出てくると思う」
かっと俺は目を見開いた。
穴を覗きこみながら、奥歯を噛んで、叫び出すのを堪える。なんてむかつくアイデアを出すんだろう。
「ああ。天岩戸作戦だな……」
風船をどかしながら、煉慈が神妙に頷いた。ふわふわ舞った風船が、兄ちゃんの肩に当たる。
兄ちゃんは偉そうに腕を組んでいた。
「隠れてるのが楽しいから隠れてるんだ。出てきた方が楽しいと思ったら出てくる」
「騒いで、近所から苦情来ねえの」
「明日、粗品でも配るさ」
「だけど、賢太郎。それって清史郎が貴方を監視してるって前提でしょう?」
「そうだ」
「弟に監視される身として、何か思うところはないの……?」
「まあ、身内だからな」
「僕は身内でも勘弁して欲しいですが……」
「おまえのところはだろう」
風船を手に持って、瞠が天井を見上げた。さっと俺は頭を隠す。
「……盛り上がって出てくるかなあ。清ちゃん、拗ねると思うぜ。どうせなら、心配かけた方が出てくると思う」
「どんな風に?」
「あんたをベッドに縛り付けて放置するんだ。餓死しそうになったら出てくる」
「瞠……」
「えっ!? 意地悪で言ったわけじゃないッスよ!?」
ぱん、と破裂音がした。咲が素手で風船を割っていた。
「びっくりした……」
「素手で割るなよ……」
「風船、どうする」
みんなは相談の上、風船をベランダに押し出した。洗濯機だけのベランダが、風船でひしめいているのを想像する。
部屋がきれいになった後、みんなは席に着いた。兄ちゃんはベッドの前の席。煉慈は兄ちゃんの正面。瞠は右側。晃弘と春人は左側に座って、咲はベッドに寝転がった。
ぎゅうぎゅうの部屋が羨ましい。俺もあそこにいたい。
「――で、どう盛り上がるの」
咲が兄ちゃんの頭を引き寄せた。春人が頬杖をつく。
「まずはアルコールを入れなきゃ」
兄ちゃんはすました顔で、どうぞと冷蔵庫を示した。
こうして大変不愉快なパーティが始まった。
楽しそうな笑い声が響く。
俺は耳を塞いで、押入から飛び降りた。小島さんの背中を爪先でつつく。
「苦情言ってきてよ! うるさいって!」
小島さんは笑って答えなかった。風に吹かれた風船が、小島さんのベランダでふわふわ漂っている。
俺は小島さんを睨みつけて、また天井裏によじ登った。小さな穴に顔を近づけて、みんなの様子を覗く。
笑い声の絶えない部屋では、兄ちゃんが晃弘を組み敷いていた。
晃弘の顔面を押さえて、みんなを見渡している。
「こうだぞ?」
みんなは爆笑した。咲なんて涙を流してる。
「笑い事じゃない。俺の恐怖がどれだけだったかわかるか」
「津久居さん、眼鏡が……」
「これで水中だぞ。あの時は本気で死んだかと思った」
「俺もあん時は茅サンやっちゃったかなと思ったわー」
「茅、だめじゃない」
あん時ってなんだ。くそ、話題についていけない。
「そうだ。今だから言うけど、人工呼吸したの久保谷だぜ」
煉慈の発言に、瞠が眉をしかめた。春人と咲が声を揃える。
「ちゅうしたんだ」
「それ以前に、俺の呼吸が止まってたことに驚けよ」
兄ちゃんは目を細めて、煉慈を手招いた。
「煉慈、笑ってないでおまえも来い」
「なんだよ」
「そこにしゃがめ」
ふらふら歩きながら、煉慈は兄ちゃんの前に丸まった。兄ちゃんは立ち上がって、煉慈にキックのマネをする。
「こうだぞ?」
爆笑が起こった。また元ネタがわからずに、俺はいらいらする。
「あの時は僕も引いた」
「あれは、あれだよ。おまえが殴られまくってたから心配してさ。だから、かっとなったんだろ」
「情熱的だ」
「ちゃんと聞けよ。いいか、大事な話だ……」
煉慈は丸まったまま、咲に説教をしてる。腰を降ろした兄ちゃんが、ベッドの咲を振り返った。
「おまえだって人のことは言えないだろ。あの時はどうやったんだ」
「あの時?」
「一瞬、俺が意識を失った時」
「ああ、あれは……」
「馬鹿。俺でやるなよ」
首に手を伸ばす咲に、兄ちゃんは慌てて飛びのいた。背筋を伸ばして、咲がみんなを見渡す。
「誰か失神したい人」
「やだよ」
「怖いなあ」
「俺、やってもいいよ」
ビールを飲みながら、瞠が手を上げた。すとんとベッドから降りて、咲が瞠に近づいていく。
晃弘が心配そうに、瞠の背を支えた。
「大丈夫かい」
「平気、平気。なんかコツとかあんの?」
「深呼吸すると上手くいく」
「わかった」
咲が瞠の首筋に触れる。
大きく口を開けて深呼吸した途端、がくんと瞠が仰け反った。晃弘が慌てて肩を揺さぶる。
「……久保谷、久保谷!」
「大丈夫?」
春人も青くなって身を乗り出した。ゆっくり瞬きをしながら、テーブルに掴まって、ふらふらと瞠が起き上がる。
「うわあ……。なんか、ふわってした……」
「そうなんだよ」
ビールを飲みながら、兄ちゃんが頷いた。
「寝起きみたいな感じになるんだよな」
「そうそう」
「危ないなあ……」
「怖……」
わりと常識派の煉慈と春人はひいている。
だいぶ酔ってる煉慈が、晃弘の眼鏡を取り上げた。
「なんだ」
晃弘は結構びっくりして、結構怒った顔をしてるけど、煉慈は気付かない。自分の顔にかけて、レンズを試している。
「度が強い? 弱い……? なんだこれ、ガチャ目か」
「ガチャ目……?」
「片方だけ、視力が弱いのか?」
「ああ」
晃弘は納得した。テーブルに肘をついて、煉慈へと身を乗り出す。
近い距離に煉慈が動揺してるけど、晃弘は気付かない。晃弘は自分の左目を指して言った。
「左目が悪い。近くで見ると濁ってる」
「え? あ……?」
「ほら」
「そ、そうだな」
「膜なんか張ってたか? 見せてみろ」
兄ちゃんに肩を叩かれて、晃弘は兄ちゃんの前でもあかんべをした。
煉慈は晃弘の眼鏡を、付けたり外したりしている。黙って口元を押さえていた春人が、説教をするように、煉慈を指さした。
「あのさあ」
手ぶりが酔っぱらっている。煉慈はむっとした。
「なんだよ」
「正直、言いたくなかったんだけど」
「なんだよ」
「辻村、眼鏡かけてると格好いい」
煉慈は見る間ににやにやした。ふふっと嬉しそうに笑って、晃弘の肩に凭れる。
「えー、本当かよ。眼鏡ってダサいと思ってさ」
晃弘に失礼だ。
「ああ。そう思ってると思ってた。だから言わなかったんだけど」
「なんで」
「調子に乗るからだよ。コンプレックスくらいあった方がかわいい」
春人は笑いながら、ポップコーンを摘んだ。
兄ちゃんの首筋に腕を回して、ベッドに戻った咲もテーブルに手を伸ばす。手のひらいっぱいにポップコーンを握って頬張る。
咲は兄ちゃんにも食べさせた。兄ちゃんはみんなと仲良しだった。嬉しいような、腹が立つような、複雑な感じがする。
なんで、あそこに俺がいないんだろう。
「もういい、もういいって」
「ブルーマンショー」
「なんだそ……」
咲はどんどん、兄ちゃんにポップコーンを詰め込んだ。兄ちゃんが吹き出して、ポップコーンが吹き飛ぶ。
瞠と煉慈の顔にぶつかった。
「おい! きったねえなあ、もう……」
文句を言いながら、テーブルに落ちたポップコーンを食べる。煉慈はぎょっとして瞠に注意した。
「……おまえ、それ食うなよ!」
「なんで?」
瞠はきょとんとしている。落ちた物でも、口から出た物でも、瞠は食べれる。ちなみに俺も食べれる。
あきれ顔で咲が言う。
「瞠は飴玉でも譲るよ」
「口に入れた奴!?」
「おまえが食いたいつったからじゃん」
平然とする瞠に、春人がわざと拗ねた声を出した。
「俺にはくれたことなーい」
「ハルたんにはなんか出来ねえよ……」
瞠は照れた。その気持ちはわかる。
俺はここにいる全員のパンツを降ろしたことがある。兄ちゃんは怒って、煉慈はかなり怒って、晃弘は困って、瞠はぞうさんダンスをした。咲はノーリアクションだった。
だけど、春人にはなんとなく出来なかった。次は頑張ってみようと思う。
「――お」
「どうした」
唐突に、咲がテーブルに立った。
子供の頃、俺がやったら怒ったのに、兄ちゃんも笑っている。
みんなの注目を受ける中、咲は手を上げた。
「酔ってます」
みんな、爆笑した。
弱いなあと言った煉慈を、瞠が肘でつつく。
「あんたもだよ」
「歌います。――1、2、3」
小さな頭を振りながら、咲はシャウトを始めた。
手拍子をたたいて、みんな盛り上がる。外国の歌を咲は歌った。兄ちゃんと春人は知ってるのか、たまに一緒に口ずさむ。
煉慈は呼吸困難になるほど笑っていた。咲はビールを掴みあげて、テーブルの上でシェイクする。
プルタブを開けて、消火栓のようにまき散らした。
おまえ!――怒鳴った兄ちゃんも笑っている。
みんな、笑ってる。
楽しそうだ。
俺がいなくても楽しそう。
笑い転げながら、咲はテーブルの上を跳ねまわる。ビールに濡れながら、みんなも大笑いした。ライトを仰ぐように、咲が天井を見上げる。
瞬間――目があった。
大きな目が見開かれる。咲はびしっと、穴を指さした。
どきっとする。
「晃弘、肩車」
「いつ?」
「今!」
俺は慌てて、天井裏から逃げ出した。
「バレたかも!」
押入れから飛び出して、俺は小島さんに報告した。弱り切った俺を見て、小島さんは笑う。
「嬉しそう」
「…………」
押入の向こうで、ドタドタと音がする。すぐに小島さんちのインターホンが鳴った。
小島さんが肩をすくめる。
「どうする?」
俺は動けなくなった。
一度、離れてしまったものに、混ざるには勇気がいる。
同じようにうまく、混ざり合えるかわからないから。
――どうして、そんなことをするの。
俺には説明できない。
「出ちゃうよ」
インターホンが連打される。小島さんは背中を向けて、玄関に向かって行った。
賢太郎のリード掴んで、俺はベランダに飛び出す。
「賢太郎、おいで」
賢太郎を抱きしめて首輪を掴んだ。丈夫なリードを外して、ベランダにぶら下げる。
うまく伝えば、一階まで降りられる長さ。
みんな、騙されるだろう。
「夜分遅くすいません。もしかして、こちらにですね……」
兄ちゃんのベランダは風船で埋まってる。
賢太郎を抱えて、俺は兄ちゃんのベランダに移動させた。風船の海を怖がったけど、賢太郎はうまく着地する。次は俺の番だ。
ベランダによじ登って、深呼吸を一つ。
大股でジャンプした。無事に着地したけれど、思い切り洗濯機を蹴飛ばしてしまう。いくつか、風船が割れた。
「てッ……」
爪先を握りながら、ベランダにしゃがみ込む。小島さんちの方から、大きな物音が聞こえた。
大丈夫だ。
誰も気づかない。きっと大丈夫。
小島さんちは、にわかに騒がしくなった。みんながやってきて、ベランダの下を覗き込む。
色とりどりの風船と、洗濯機の影から、懐かしい顔を見つめた。
一番身を乗り出して、下を覗き込んでいる瞠。
煉慈はふらつきながら、外を指さして指示をしている。
風のように身を翻して、晃弘が玄関に戻っていく。
春人は真剣な顔で、小島さんに話しかけていた。
咲は笑っている。
夜空を見上げながら、とても明るい笑顔で。
兄ちゃんは?
兄ちゃんはどこだろう?
……カラカラと響いた音に、俺は息をのんだ。
開いていく窓とカーテンを、風船に埋もれながら見上げる。震えるような予感に、賢太郎を抱き締めた。
そこには兄ちゃんが立っていた。
「…………」
風を受けた風船が、窓から部屋に戻っていく。赤、青、黄色、緑、オレンジ、紫、白……。ふわふわと舞い上がる。
俺のことを見つけても、兄ちゃんは驚かなかった。
咥え煙草のまま、ゆっくりとしゃがみこむ。視線の高さを俺に合わせて、兄ちゃんは俺を見つめた。
兄ちゃんの目を見るのは久しぶりだった。
遠くからか、寝てる時にしか、見ていなかったから。
本当はずっと、正面から見たかったんだ。
「よう」
兄ちゃんは言った。
優しく瞳を細めて、口元を緩ませる。
記憶の中の兄ちゃんと、目の前の男の人が、ようやく俺の中で一つになった。
「おかえり」
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