Catch Me If You Can ! (from K)
学生たちが帰った後、清史郎は夜明けまで喋り続けた。
どこにいたのか。何をしていたのか。何を考えていたのか。週に一度手紙を送って来たエネルギーで、清史郎は喋り続ける。笑い声を上げて、犬を撫で、部屋中を歩き回りながら。
清史郎は嬉しそうだった。長い話に適当に相槌を打ちながら、俺は煙草に火を付ける。
(構って欲しかったんだろうな)
不憫さを感じた。清史郎は俺が一度捨てた子供だった。次の日が休みなのもあって、律儀にお喋りに付き合う。
だが、憐れんでばかりはいられない。清史郎が喋り疲れたところを見計らって、俺は本題を口にした。
「それで、学校にはいつ戻るんだ」
「……えーと」
清史郎は口ごもった。音量を落とされたスピーカーのようにしょぼくれていた。
「家にも帰れ。おまえの家族が心配してるぞ」
「おまえの家族って?」
「おふくろと御影さんと……あとほら、いただろう。兄弟が」
「兄ちゃんや父ちゃんは心配してねえの」
「してたさ」
「なんで、俺の家は母ちゃんの家なの。兄ちゃんとこだって、父ちゃんとこだっていいじゃん」
屁理屈をこねる子供のように、背筋を伸ばして清史郎は主張した。オカマの言っていたことを俺は思い出す。
「新しい家で、うまくいってなかったのか」
「うまくってなに?」
「御影さんたちと仲良く出来なかったのか」
「当たり前じゃん。兄ちゃんもだろ。だから、父ちゃんと一緒に住んでないんだろ」
さりげなく図星を突かれて俺は閉口した。
両親が離婚する前は、別れを切り出された親父に同情もしていたが、二人で暮らすようになっておふくろの気持ちがわかった。
身の回りの世話をする人間を、親父は求めていただけだった。
力を合わせて生きて行こうと言いながら、家事には一切協力しなかった。あまつさえ、俺が文句を言うと「母親似の口達者な奴だ」と呟くありさまだった。何度殴りそうになったかわからない。
高校に入ってからは、ほとんど口を利かなくなった。親父は理想家だったのだ。ドラマのような家庭と父親像を自分に求めながら、努力は全くしない甘い夢想家だった。
父と息子なんてそんなものだろう。あの学生たちの家庭不和に比べれば、蚊に刺されたようなものだ。
清史郎は真っ直ぐに俺を見ていた。ため息をついて、我ながら情けない、妥協案を口にした。
「まあ、家と言っても、おまえは寮暮らしだろう? 学校に戻ればいい。友達もいるし、槙原もいる」
「…………」
「槙原はいい教師だ。何かあったら、相談して……」
「俺のこと、人任せにするの」
清史郎の目は据わっていた。緊張を走らせながら、俺は丁寧に煙草の火を消す。
「そうじゃない。今日はもう寝よう。空が白んできた」
「兄ちゃんは一緒に暮らすって約束した」
言いつける口調に、そら来たと眉を寄せた。
頭の中で素早く計算する。清史郎が大学を卒業するまで後五年。その頃の俺は三一歳。
「婚期を逃すから止めてくれ」
「婚期って? 結婚すること? 誰? 写真ある? 美人?」
「美人の嫁を貰うために、おまえとは暮らせない」
「馬鹿じゃん。父ちゃんとも、弟も暮らせなくて、お嫁さんと暮らせるわけねえじゃん」
また痛い所を突かれた。
いい加減うんざりして、俺はテーブルを片づけ始める。
「寝ようぜ。ベッドを使っていい。テーブルを片づけろ」
「一緒に寝ようよ」
「もう子供じゃないだろ」
「兄ちゃんのせいじゃん。俺が子供の頃、寝に来れば良かったじゃん。兄ちゃんのせいなのに、なんで俺が我慢すんの。俺はずっと楽しみにしてたんだ。兄ちゃんに読んで貰いたい本とか、兄ちゃんの遊びに行きたいところとか、寝る前にいつも考えて決めてたのに。ずっと迎えに来なかったのも、手紙の返事くれなかったのも、電話してもすぐに切ったのそっち……」
清史郎の文句を聞きながら、俺はテーブルを片づけてスペースを作った。冬の掛け布団を床に敷いて、清史郎の尻を叩く。条件反射のように、清史郎はベッドに上がった。
布団にもぐりながら、まだ文句を言い続けていた。
「父ちゃんや母ちゃんが帰りが遅い時、兄ちゃんもむってしてたじゃん。仕事ばっかりって言ったじゃん。なのに、兄ちゃんも仕事ばっかりじゃん。あの時、謝ったっぽくしたけど、やっぱ変わってないじゃん。兄ちゃんは本当に悪いと思ってんの?」
「人は簡単には変われないだろう……」
疲れていたので、目を閉じた途端に睡魔が襲った。喋り続ける清史郎の声がさらに眠気を誘う。
「変わるよ。あんたは変わったもん。俺が知ってる兄ちゃんだったら、鉄平にあんな記事書かなかった」
古川鉄平の名前が眠気を吹き飛ばした。
津久居賢太郎のせいで、俺の人生は終わった。
「鉄平の死んだ顔、俺は見たんだ。あんたは見てないだろ。だから、わかんないんだ。お化けみたいな、鉄平じゃない顔」
呼吸が浅くなった。上擦る清史郎の声に、記事の見出しのような文言が浮かぶ。身近な人間の自殺死体を見たことによるPTSD。
ドンと音がした。清史郎がベッドから降りてきた。肩を揺さぶる手にも、俺は頑なに目を閉じる。
「ねえ、兄ちゃん。なんか言ってよ、兄ちゃん」
非を認めたくなかったわけじゃない。自責の苦痛から逃げようとしたわけじゃない。
ただ、本当に眠かった。
翌日、清史郎を連れて、おふくろの元を尋ねた。
電話をするのも久しぶりだった。清史郎が生きていたことは報告してあったが、連れて帰ると告げるとおふくろは涙ぐんだ。
俺はほっとした。清史郎が愛されていることに。
「古川はもう家に戻れないんだ。つまらない意地で贅沢を言うな」
帰宅を渋る清史郎に、俺は言い聞かせた。清史郎は目を瞠っていた。
「あんたが言うの?」
ともかく、清史郎は大人しく付いてきた。
俺は目眩がしていた。強い陽射しのせいかもしれない。寝不足の日々が続いたせいかもしれない。
容赦のない陽射しが、アスファルトを白く照りかえす。道を歩く人々は、太陽を憎んで顔を顰めていた。
夏になるには早すぎる。
冬を引き摺る俺たちは、まだ陽に焼かれる用意が出来ていない。
清史郎が足を止めて、俺は振り返った。清史郎は犬を抱きあげていた。
俺の視線に気づいて、彼は説明する。
「道路が熱いと、賢太郎の足が痛くなっちゃうんだ」
「犬の名前、変えろよ」
彼から目を逸らし、俺は歩き出した。清史郎は追いつこうとせず、俺の一歩後ろを歩く。
「賢太郎の足の裏は、丈夫な方なんだって。家で飼ってる犬は、もっと足が弱くなっちゃうんだって」
「名前を変えろよ。……おかしいだろ」
清史郎は嘲笑した。
ぞっとした。
「あんた、文句ばっかりだな」
この少年は一体誰だろう。
清史郎が俺に違和感を覚えるように、俺も清史郎に違和感を覚えていた。
清史郎はこんな子供だったか。もっと無邪気で素直な子供じゃなかったか。叱られて文句は言っても、頬を歪ませたりしなかった。
こうなったのは、俺のせいなのか。
喉の奥が苦かった。学生たちに偉そうに出来た助言が、実の弟を前に上手く出て来ない。
白っぽい陽光に目が眩む。ふいに清史郎に肩を掴まれて、心臓が止まりかけた。
「あそこ」
大きなマンションの三階を指さして、清史郎はそう言った。
母親と何を話せばいいんだろう。
「賢太郎。あらまあ、男らしくなって。仕事はどう?」
「久しぶり。清史郎を連れて来……」
玄関に入った瞬間、背後でバタンと音がした。
振り返ると、清史郎はいなかった。走る足音が遠ざかっていく。
俺は舌打ちして、ドアノブを掴んだ。
「悪い。連れ戻してくる」
「いいのよ。無事ならそれで」
俺は耳を疑った。電話口で涙ぐんでいたおふくろは、明るく笑って俺の腕を引く。
「遠慮せずに上がって行って。お父さんは仕事だし、さやかちゃんも出かけてるから。全然顔を見せてくれないから、寂しかったわ」
よろめくように玄関に上がった。甘えがあったのかもしれない。母親と言う存在に、清史郎のことを相談したかった。
だが、二時間かけて俺が聞かされたのは、延々と終わらない清史郎に対する愚痴だった。
「あの子のことを、どうすればいいの。死んだ振りをしていたなんて、お父さんに申し訳なくて……。何を考えてるのかわからないわ。自分の子供じゃないみたい」
「何かあれば、お兄ちゃん、お兄ちゃんって。会わせてあげようと思ったけど、賢太郎に迷惑をかけると行けないと思ったのよ。大丈夫? あんたの方に、迷惑掛けてなかった?」
「ひどい母親と思うかもしれないけど、毎週学校に呼び出された私の身にもなってよ。さやかちゃんにまで恥ずかしい思いをさせて……。清史郎の妹だってことで、学校でじろじろ見られるんですって」
「寮に入りたいっていうから、お父さんにお願いして、高い入学金払って貰ったのよ。それなのに、学生寮で火事を起こして……。学生の管理はそちらに責任があるはずですって話して、お金は払わなくて済んだんだけど。あやうく裁判になるところだったわ」
「わからないのよ。本当にわからないの。清史郎は一体、何が気に入らないの?」
「――もう帰るよ」
そう言うのが精一杯だった。おふくろを気遣って、俺は微笑んだ。
「あいつ、犬連れてるだろ。犬と一緒に入れる所なんて、そうないから。熱中症になるかもしれない」
おふくろは機敏に、俺が愚痴に耐えかねたことを察した。苦笑をこぼして、肩を竦める。
「そうね、そうしてあげて。あの子のことは、お兄ちゃんじゃないとわからないもの。お兄ちゃんがおかしなことばかり吹き込むから、あの子はあんな風になったんだわ」
雰囲気を明るくさせるように、おふくろは冗談っぽく言った。
「怪獣がどうとか、魔法使いがどうとか。面白く叱ってあげないと、言うことをきかないのよ」
「俺のせいか」
おふくろははっと口を噤んだ。俺はもう彼女の顔を見なかった。
「遠慮しないで遊びに来て。清史郎にもそう伝えて」
嘘吐くなよ。俺は心中で嘲笑った。
「ああ」
マンションを出ると、太陽は凶暴さを増していた。
核で滅びる寸前の世界のように。
清史郎を探して、真夏の下を俺は彷徨った。今夜は憂さ晴らしに飲みに行きたい。
石野に連絡しかけて、止めた。あいつには帰りを待つ女がいる。
俺は清史郎を探した。アパートに戻ってもいなかった。
清史郎を匿っていた隣人の家を尋ねると、彼はアパートを引き払っていた。忽然と幻のように消えていた。
『完治するまでには揺り返しって言うのがあって、元の症状よりも悪化することがあるんだって』
携帯電話越しに、春人はそう語った。
彼の声は重く沈痛だった。部屋でビールを飲みながら、俺は不機嫌に黙りこむ。
『良くなる過程の一つだから、仕方ないんだって。……変に思って調べたけど、本にも似たようなことが書いてあったよ』
「だからと言って、一日四〇錠もの薬は異常だろう。どうして病院を変えたりしたんだ。名医を探してあいつを連れて行ったんだぞ」
『おじさんが変えさせたらしいよ。お兄さんが入院していた所に』
「なんのために? あいつの親は息子を殺す気なのか」
『その方が信用できるからって。おじさんの言うことに茅は逆らわないし……』
先日、晃弘が視力を失ったらしい。
丸一日目が見えず、夕方には足が動かなくなった。そのまま昏倒して、意識を取り戻した時には、視力も回復していたが、何も覚えていなかった。
今は問題はないらしいが、医者を変えたせいとしか思えなかった。
「父親はそのことを知ってるのか? 槙原は何をしてる?」
『先生は……』
春人は言葉を濁した。
短くはない沈黙が流れる。眉間の皺を解いて、俺は春人を心配した。
「……大丈夫か?」
『どうして、清史郎を連れて来てくれなかったの』
思い詰めた口調で、春人は尋ねた。
『清史郎は学校に戻ってくると思ってた。賢太郎が説得して、連れて来てくれるんだって。清史郎、まだ帰ってないんでしょう?」
「……ああ」
『こんなことなら、貴方に任せずに残れば良かった。どうして、どこかに行っちゃったんだよ。清史郎を叱ったの?』
「叱ったわけじゃない。だが、あいつのわがままは全部は聞いていられない。そうだろう?」
『俺なら全部聞くよ』
俺は沈黙した。春人が何を責めているのか、俺はようやく理解した。
『ともが生きて帰ってくれたら、俺は何でもする。何でもしたいよ。……清史郎が死んでた時の方が、貴方は優しかったよ』
鈍い動揺が走って、俺は焦燥した。
監禁生活の中でさえ、春人は俺の味方だった。批難ではなく同意や共感を求めるくせがついていた。
頷かせるために、語気に力が籠る。
「甘やかすことだけが愛情じゃないだろう。おまえだって、本当に弟が生き返ったら、文句の一つも言ってたさ」
『文句を言うなって言ってるわけじゃないよ。どうして出て行ったのかって聞いてるんじゃない』
「俺が悪いのか」
『悪いから、話せないんでしょう。後ろめたくて』
「あいつの面倒を見たのは、たった五歳までだ! どうして、誰も彼も、あいつを俺に押し付けようとするんだ!」
いつの間にか、俺は声を荒げていた。
夏の暑さに苛立っていたのかもしれない。
我に返って、発言の薄情さに絶句する。少なくとも、春人に言うべき台詞じゃなかった。
俺の弟は戻っても、あいつの弟は永遠に帰らない。
『そう』
冷たく笑う吐息が聞こえた。
『槙原先生が連絡した時、茅のおじさんがなんて言ったと思う? ――最善を尽くしている。これ以上は求めないでくれ』
「春……」
『貴方と同じだね』
通話が途切れた。
翌日、槙原が部屋に訪れた。
チェーンをかけたまま、気軽にドアを開けた俺は、槙原の顔を見て勢い良くドアを閉めた。
槙原の目つきは異様だった。編集部に乗り込んで来た時と同じ顔だ。
ドアを閉める寸前に、槙原は腕を割りこませた。ごりごりと腕を伸ばして、チェーンを激しく揺する。
その手には、指先まで、包帯が巻かれていた。
「御影君はいる?」
「おい、手を離せ! 外からチェーンは外れない!」
「御影君と話がしたいんだ」
「清史郎はいない! 今開けるから待っていろ」
槙原はするりと腕を引き抜いた。
チェーンを外してドアを開ける。無言で招き入れながら、俺は緊張を隠せなかった。
槙原の両眼は激情に燃えている。なのに、あらゆる表情が消え失せていた。一族郎党を殺された怨霊でさえ、こんな恐ろしい顔はしないだろう。
早足にキッチンに向かい、フライパンを構え、距離を取って槙原に尋ねた。
「――何があった」
「そのフライパンは何?」
「護身用だ。おかしな真似をしたら、速攻で殴りつける」
「御影君はいつ戻ってくるの」
「知らない。あいつのことで何かあったのか」
「御影君が古川君を神波さんに預けていたって本当?」
「神波に預けた……?」
ドンドンと激しくドアが叩かれた。
槙原に警戒しながら、玄関に向かう。ガチャガチャとノブから音が響いて、俺が辿りつく前に、玄関のドアは開いた。
「……マッキー!」
「おまえな、さすがに犯罪だぞ……」
血相を変えて現れたのは、瞠と晃弘だった。不法侵入に閉口しながらも、得体のしれない槙原と二人きりではなくなったことに安堵する。
だが、瞠の顔を見た瞬間、槙原の憎悪が膨れ上がった。
遠くの空が、青白く光る。
「何をしに来たの」
「マッキー、聞いてよ! 俺は本当に知らなかったんだ!」
靴を脱ぎ捨てて、瞠は転がるように進み出た。彼の背後で晃弘が俺に会釈する。
瞠に腕を取られて、感電したように、槙原は顔を歪めた。
激しい落雷の音と同時に、土砂降りが始まる。
「君が全部話すと言って、僕は僕なりに、誠心誠意受けとめたつもりだったよ」
雨はドラムのように、町を叩きのめした。
積乱雲だ。俺は思った。
熱せられた空気が上空に立ちのぼり、氷のような低温に触れて、嵐のような豪雨を降らせる。
眩しい陽光に焼かれながらも、すぐそこに、凍えた世界は存在する。
「……だけど、君は都合のいいことだけ、選んで話をしたんだ。僕にとって肝心なことは、何もかも隠して!」
「古川のことは何も聞いてない! フィリップには関係してないって誠二が言ったんだ!」
龍のような雷鳴が、西の空で横走りする。
「お願いだ! 俺のことを信じてよ!」
「君はそうやって、いつも僕を騙してきたじゃないか!」
息の根を止める台詞だった。
槙原を押さえ付ける俺も、瞠を抱えこんだ晃弘も、同じように絶句した。固唾を飲んで、瞠の様子を伺う。
彼は黙って、槙原を見ていた。
廃棄された家財のように、抗う言葉を一つも持たずに。
雷雨は30分ほどで収まった。
嵐の後の空は、幻想的な薔薇色に染まっている。俺は万札を取り出して、晃弘のポケットにねじ込んだ。
「おまえたちはタクシーで帰れ。槙原は俺が送って行く。キーを出せ」
「わかりました」
「免許証もだ」
晃弘は不思議そうな顔をした。眉を顰めて、俺は彼を睨む。
「視力を失うような奴に運転はさせられない。意識を失う疾患があることを教習所で言わなかったな」
「……はい」
「重い症状は治ったものだと思っていた。何故、言わなかった」
「医師以外には話すなと、父が」
激しい怒りを感じて、俺は車のキーを握り締めた。
その手を、晃弘が掴む。
「津久居さん。一緒に来てくれませんか」
「槙原を連れて、後から行く」
「そのまま、帰らないで欲しいんです。もう一度、あの部屋に。貴方が逃げないのなら、鎖で拘束などしないから」
「…………」
雨上がりの空で、蝉が鳴きはじめた。
掴まれた手首が軋む。晃弘は真剣に、俺を見つめていた。
揺り返しが来るんだよ――春人の声が蘇る。
「……病院を変えろ。処方された薬はしばらく飲むな。必要なら、俺がおまえの親父と話す」
晃弘の肩を叩いて、俺は手を外させた。
「それでも問題が解決しなかったら、また考えよう」
晃弘は従順に頷いて、玄関の外に出た。アパートの廊下では、瞠が美しく燃える空を見上げている。
落涙の跡もない頬が、赤紫色に染まっていた。
「無理だよ、俺にはもう。なんであの火事の時、目が覚めちゃったんだろう」
学生たちに別れを告げて、俺は室内に戻った。歩くほどに、足音は強く、大股になって行く。
手加減せずに、槙原を殴りつけた。
「何を考えてるんだ! それでも教師か!?」
寝台の上に、槙原は倒れ込んだ。強張った彼の両手が、彼の髪を掻き毟る。
「……もう、わからない。もう何も信じられないよ……」
「何があったんだ。何故、瞠にあんなことを……」
「全部なくなっちゃった。時計も、写真も、昔貰った手紙も、ごめんなさい、古川君……。ああ、どうして……」
「槙原……?」
「僕は馬鹿だ。あの子の形見を、あの子を死なせた相手に預けるなんて。……どうして、少しでも疑わなかったんだろう」
目頭に両手を押し付けて、失明した者のように槙原は嗚咽した。
「あの子のもの全部、神波さんと久保谷君に焼かれた」