Catch Me If You Can ! (from S)
兄ちゃんの写真は家に一杯ある。
俺の写真はあんまりない。この話をすると、母ちゃんはいつも「仕方ないじゃない。二人目なんてそんなものよ」と言う。
俺は別に良かった。兄ちゃんの写真が多い方がいい。
ファミレスで誰かと話してる時だ。ひらりと俺を手で差して、母ちゃんは言った。これは生まないつもりだったのよ。
「だけど、あの人が(たぶん父ちゃんのこと)これが最後になるだろうからって。育児も手伝うし、仕事も辞めることないからって。……全部口だけ、あきれるわよ」
俺はファミレスのテーブルに掴まって、コップの傍に出来た水たまりを、息で吹き飛ばしていた。ストローの袋を濡らして遊んでいたんだけど、さっき取り上げられてしまった。
あの子がかわいそうね――母ちゃんは言った。
「賢太郎よ。あの子は良くやってくれたわ。家事も、これの世話も、黙って引き受けてくれた。家族がバラバラにならないようにって、あの子なりに思ってたんでしょうね」
俺がおねしょをするたび、俺が何かをこぼすたび、母ちゃんと父ちゃんはケンカになった。一番に気づくのは母ちゃんだけど、母ちゃんは父ちゃんに俺の世話をさせたがった。そう言う約束だったからだ。
そのたびに、兄ちゃんが飛んできた。兄ちゃんは服を着替えさせて、俺を叱って、最後に笑わせてくれた。だから、俺は兄ちゃんが一番好きだった。
「私が引き取ってあげたかったんだけど、二人も息子を連れて行ったら御影さんがね……。あの人は自分の世話なんて出来ないから、賢太郎が必要だっただろうし」
ストローを噛んで伸ばしてたら取り上げられた。俺はファミレスにいるのに飽きていた。
きっと、母ちゃんも、俺といるのに飽きていた。
「手がつけられないのよ。利かん坊なの。さやかちゃんの方がずっと大人で……。どうして、こんな子になったのかしら」
楽しいことを、俺は待っていた。
わくわくすることだ。例えば、悪い宇宙人の襲撃。秘密の使命をおびた部屋片付け。大人しく絵本を呼んでいるとご褒美をくれる神様。
兄ちゃんはいつでもくれた。兄ちゃんのお話がウソでもホントでも良かった。兄ちゃんといると楽しかった。頭もお尻もぶたれたし、怒ると怖かったけど、兄ちゃんが俺を好きなことはわかっていた。
コップもナフキンもメニューも全部遠ざけられて、俺はいよいよつまらなくなった。母ちゃんの隙を見て、テーブルの下をくぐり抜ける。
ファミレスを駆けまわる俺に母ちゃんが怒鳴る。どうして、こんなことをするの。そんなこと俺にだってわからない。じっと出来ない。どこかに駆けだしたくなるんだ。
俺は兄ちゃんが心配だった。母ちゃんと父ちゃんに文句を言って、兄ちゃんは泣いていた。俺は兄ちゃんの味方だから、二人を許さなかった。
御影さんも、彼の娘のさやかも許さない。家族みたいに仲良くしたら、兄ちゃんに悪い気がした。兄ちゃんも新しい家族を作ってしまう気がした。
早く兄ちゃんに迎えに来て欲しい。もしも兄ちゃんが来たら、俺は前よりうまく兄ちゃんによじのぼれるだろう。長い間ぶらさがっていられるだろう。
兄ちゃんは笑うと思う。叱りながら、笑うと思う。
そして、俺の頭を撫でて、優しい笑顔を見せてくれるだろう。
AM8:10。
昨日と同じ時間に、アパートのドアが開いた。
(……あんな顔してたっけ……)
双眼鏡を外して、俺は悩んだ。
仕事に出かける兄ちゃんを、俺は遠くから観察していた。あっという間にバイクに跨って、兄ちゃんは駐輪場を出ていく。
今日も声をかけそびれてしまった。
ある晴れた日。公園でお好み焼きを食べながら、俺はふと兄ちゃんに会いたくなった。帰ってもいいかな、と思ったんだ。
思い立ってすぐ、賢太郎を連れて旅立った。事前に調べていた兄ちゃんのアパートに到着する。ドアの前に座り込んでるのは間抜けだったし、どうせなら、びっくりさせてやりたかった。
物陰に隠れて兄ちゃんの帰りを待った。日付が変わる頃、兄ちゃんは帰ってきた。コンビニ袋とヘルメットをぶら下げて、アパートの階段を上がっていく。
声をかけようと思った瞬間、非常に緊張してしまった。迷っているうちに、兄ちゃんはドアを開け、部屋に入ってしまう。
それが五日前のことだ。
「やっぱり、今日もだめだったな」
賢太郎に話しかけて、俺はリードを引いた。アパートの階段を上って、兄ちゃんの部屋の隣のドアを開ける。
「ただいまー」
「おかえり。今日もだめだったのか」
「うん。だめだった」
俺は小島さんに報告した。小島さんはこの部屋に住んでいる大学生だ。三日前、物陰に潜んでる俺に、小島さんは話しかけてくれた。
「君、昨日もいたよね。何やってんの」
「お腹空いた」と俺は答えた。
その日から小島さんにお世話になっている。なんとなく小島さんは鉄平に感じが似ていた。
兄ちゃんは仕事に行ってしまった。次のチャンスまで15時間以上ある。暇だ。
小島さんちのベランダに出て、兄ちゃんのベランダを覗いた。洗濯機だけがぽつんとしてる。体を乗り出すと、少しだけ部屋の中が見えた。
名案を思い付いて、俺は小島さんに聞いた。
「押し入れの天井に穴開けてもいい?」
「いいよ」
俺は外に飛び出して、農家を探した。農家の人はノコギリを絶対持っている。中村さんというひとが将棋の相手をする代わりに、ノコギリを借してくれた。
「天井に穴を開けるならドリルと糸鋸も必要だ。貸してやろう」
なるほど、便利だった。俺は天井に穴を開けて、兄ちゃんの部屋の天井に行った。屋根裏はむっとしていた。汗だくになりながら、いくつか穴を作って下を覗く。押入れを見つけて、俺はそこに穴を開けた。
押し入れは荷物で一杯で、穴を開けるよりも、押入れから抜け出す方が大変だった。収納ケースを少し割っちゃった。
兄ちゃんの部屋に辿りついた。ごきげんな達成感で兄ちゃんの部屋を見渡す。くしゃっと丸まったベッドの上のタオルケット。傍には携帯の充電器。テーブルの上にはノートパソコン。コーヒーが入ったままのカップ。大きめの灰皿は吸い殻で一杯だった。
オイルの切れたライターが七つもあった。AVラックからはみ出た雑誌がタワーみたいになっている。
時計やカレンダーはない。
格好良いと思った。時間なんて気にしない主義なんだ。
(後で聞いた話だと、携帯電話で全部やりくりしてるらしかった)
兄ちゃんの部屋に来て、俺はじっとしてられなかった。いつも余計なことをしてしまう。
浴槽にお湯を張って、冷蔵庫から味噌を取り出した。混ぜる。わかめはなかったから、パックに入っためかぶを浮かせた。
帰って来た兄ちゃんは、きっと驚くだろう。
浴室に入った兄ちゃんは、石像のように固まった。
そして、すぐに言った。
「清史郎か?」
ぎょっとしながら、俺はものすごく興奮した。兄ちゃんはベランダと、押入れを順番に開ける。口を押さえながら、俺は屋根裏で笑い転げている。
しばらく部屋中を探索していたけど、兄ちゃんはあきらめて風呂を洗いはじめた。俺はとても満足していた。すがすがしい気分だ。
「どう。驚いてた?」
「驚いてた。すぐに清史郎かって言った。兄ちゃんすげえ」
小島さんと賢太郎を俺は順番に抱き締めた。踊り出したい気分で、小島さんのベッドで跳ねる。
いくつもの計画が俺の頭に浮かんだ。俺は全部それをやるつもりだった。賢太郎を抱えてベッドで目をつむる。
「兄ちゃんが寝たら起こして」
「わかんないよ。何時くらい?」
「物音がしなくなったら」
小島さんは一晩中起きてる。いつ寝てるのか俺にもわからない。
AM3:00。
息をひそめて兄ちゃんの部屋に忍び込んだ。とても危険な任務だ。わずかな物音で目が醒めてしまうかもしれない。
だけど、兄ちゃんの顔が見たかった。スリルを楽しんでもいた。天井の穴を抜けて、押入れの戸を開ける。小島さんにアドバイスを貰って、邪魔な荷物は天井裏に片付けておいた。
部屋は冷房が聞いていた。兄ちゃんはエコじゃない。真っ暗な部屋の中、かすかに寝息が聞こえる。
兄ちゃんは枕を抱えて、うつ伏せになって寝ていた。獲物を捕まえた途端、息絶えた動物のようだった。テーブルにはビールの空き瓶が二つと、野菜スティックの空き容器があった。マヨネーズだけ残ってる。
そっと、顔を覗いた。暗くて良く見えない。携帯で照らすと、迷惑そうに眉を顰めた。
兄ちゃんはこんな顔だったかな。
昔よりも、険しくなっている。
俺は昔を思い出した。切ない気持ちだった。昔は兄ちゃんと一緒に寝ていたけれど、今は団扇を仰いでくれたり、絵本を読んだりはしてくれないだろう。
兄ちゃん、兄ちゃん――俺も話しかけられない。俺はたぶん、兄ちゃんに見つけて欲しいんだ。何を話せばいいかわからないから。
眠ってる兄ちゃんをしばらく眺めて、目を伏せて立ち上がった。エアコンを暖房に切り替える。
俺は兄ちゃんの部屋を立ち去った。
次の日は早く起きれず、汗だくになった兄ちゃんは見逃した。
代わりに、新しい試みに挑む。
「週刊北斗編集部は5階だけど、誰にご用事かな?」
受付の女の人は俺を子供扱いした。俺はむっとして嘘をつく。
「辻村煉慈です。小説を書きます。津久居賢太郎に詳しい人をお願いします」
受付の人は不思議そうにした。
「その……辻村先生とはお顔が違う気がするんですけど」
「整形しました」
「津久居賢太郎さんと言うのは、作家の方ですか?」
「記者です。その人に用はないです。その人に詳しい人に会いたいです」
受付の人は微笑んだ。物わかりの良さそうな笑顔だった。
「ここで働いてる人の家族かな? お父さんを探してるの?」
ため口になった。俺もため口になる。
「違うよ。お姉さんじゃわかんないから、週刊北斗の人に聞いてみてよ」
「そうだね。ご家族の人は津久居賢太郎さん?」
お姉さんは電話を首に挟んだ。俺は手を伸ばして、電話のスイッチを切る。
「違うよ。他人なんだけど、本人には用はねえの。友達とか仲のいい人に会いたい」
「家族じゃないなら、ちょっと取り次げないなあ。あと、ワンちゃんもちょっと困るかな」
俺は口を曲げた。俺の足元で賢太郎は大人しく尻尾を振ってる。
なんて言って説得しようか悩んでいると、俺の後ろを見やって、受付のお姉さんが誰かを呼び止めた。
「河邊さん」
「おう、お疲れ」
ニヤニヤした男がポケットに手を入れてやってきた。受付の女の人と仲がいいみたいだ。雑談が始まって、俺はその場を離れる。みんな職務怠慢だ。
「待って。君、津久居の家族だって?」
がしっと肩を掴まれて、俺は振り返った。河邊さんは俺の腕を引いてビルの外に出した。犬はだめだよ、と彼は言った。
「――それで、津久居とどういう関係だっけ」
「関係とかあんまない」
「津久居の家族だったらさあ、なんか知らないかな。あいつ、三カ月も仕事休んで何してたの」
「知らない」
「あ、そうなんだ。じゃあ、女と遊び回ってたのかな。いい加減な奴だよね。復職出来たけど、デスクも内心むっとしてるんじゃないかな」
「遊んでないよ」
「だったら、何してたんだ」
「監禁されてた」
「監禁? 誰に」
「俺に」
釣りの名人が手応えを感じて竿を引くように、河辺さんは笑みを浮かべた。俺は怯んだ。立ち去ろうとする前に、腕を掴まれる。
「用事思い出したから帰る」
「待ってよ。詳しく聞きたいな」
「やだ」
「塾講師刺傷事件と何か関係あるんだろ。今さら謝罪文なんておかしいじゃないか」
ウウーッと賢太郎が唸った。たじろいだ河邊さんの隙を見て、たたっと俺は逃げ出す。
白っぽい陽射しの下を、俺は賢太郎と走った。汗を拭うサラリーマンが俺たちを見て笑った。
犬が好きなんだろう。
「今夜は止めといた方がいいんじゃないかな。同僚から話を聞いて警戒してるよ」
小島さんは俺にアドバイスをして、ひょいっと何かを差し出した。
お医者さんで貰う薬の袋だ。
「もしも、決行するならこれだ」
睡眠薬だった。医者の薬だから効くよ、と小島さんは得意げに笑う。小島さんは不眠症なんだそうだ。
睡眠薬を見ると複雑な気持ちになった。俺はこれを使って、友達を焼き殺そうとしたことがある。俺も賢太郎も一緒に死ぬつもりだった。
「ありがとう。使ってみる」
それでも、ゲットしたアイテムは使ってみたくなる。
俺は兄ちゃんの部屋に忍び込んで、ペットボトルの水を半分以上捨てた。そこに睡眠薬を混ぜる。ビールを飲まない日は、兄ちゃんは水を飲むから、高確率で飲むだろう。
その日は早く、兄ちゃんは帰ってきた。帰って来た途端、部屋中を確認して回った。押入れも開けて、前より奥まで覗いた。
部屋の真ん中で、兄ちゃんは息を吐いた。腰に手を当てて、額を押さえている。
「清史郎」
兄ちゃんははっきりと言った。
「いるんだろう?」
俺は答えなかった。ぞくぞくしていた。天井に開けたいくつもの穴から、兄ちゃんの動きを追いかける。
「出て来いよ。どこに隠れてる。怒らないから、出て来てくれ」
声を張り上げた後、我に返ったように、兄ちゃんは頭を掻いた。冷蔵庫からペットボトルを取り出して、グラスに水を注ぐ。
「これでいなかったら間抜けだな……」
20分後、兄ちゃんは意識を失った。コンビニのそばを半分も食べていなかった。
その夜、小島さんと賢太郎を、兄ちゃんの部屋に招いた。
ベッドに寝かせた兄ちゃんを、片手を広げて紹介する。
「俺の兄ちゃんです」
渇いた傍を食べながら、小島さんは頷いた。
「似てるね。ふうん、こういう間取りになってるんだ」
小島さんは兄ちゃんよりも、自分の部屋と真逆の間取りに興味を示した。今夜は何をするのと尋ねられて、100円均一で買った風船を見せる。
「部屋中、風船で埋める」
小島さんは笑った。俺たちは一緒に風船を膨らまし続けた。
一時間たったころには、床は風船で埋まった。天井まで届くにはだいぶ時間が掛かる。酸欠になったと言って、小島さんは帰ってしまった。
俺は意地になって、風船を膨らませ続けた。赤、青、黄色、緑、オレンジ、紫、白……。兄ちゃんの部屋が風船で埋まっていく。
テーブルの高さまで埋めたところで俺は飽きた。すごく疲れた。風船もなくなってしまった。
兄ちゃんは目を覚まさない。つまらなくて寂しかった。馬乗りになってみても、兄ちゃんは目を覚まさない。
油性マジックを見つけて、兄ちゃんのシャツに落書きした。宝の地図を描く。兄ちゃんは見つけられるだろうか?
テーブルの上で賢太郎は眠たそうだ。俺も眠かった。顔にも落書きしようとして俺は止めた。
枕を取り上げて、兄ちゃんの顔に押し付ける。
俺はたぶん、怒っていたんだと思う。何かわからないけれど。
兄ちゃんの手首が跳ねる。俺は枕をどけて、頭の下に戻してあげた。とんとんとお腹を叩く。
ひどく優しい気持ちになれた。
鉄平の夢を見た。
鉄平の夢を見ると兄ちゃんが憎らしくなる。
明け方だったけれど、小島さんは起きていた。論文を書いている。俺は布団を剥いでて、小島さんにひっついた。
「どうしたんだ」
「怖い夢見た」
「眠るからだよ」
小島さんは笑った。眠らなくていい彼を俺は尊敬した。
最後に見た鉄平の顔はとても怖かった。あの顔を思い出すたび、俺は鉄平の笑顔を思い出そうとする。だれど、なかなか消えて行かない。
両手で瞼を押さえる。鉄平は苦しかったんだろう。目を見開いて舌を出していた。落ち着かなくなって、俺は賢太郎の首を抱いた。
小島さんのシャツを掴む。彼は軽く笑った。
「君は島の子たちに似てるよ」
「島?」
「幽霊島だよ。子供たちだけが住んでる」
ネヴァジスタみたいだ。
近所のカレーの匂いみたいに、まだ甘く俺の気を引く。
「君も薬を飲む?」
「いらない」
「風船は天井まで届いた?」
「届かなかった」
「そう」
それきり、小島さんは黙った。あきれられたような気がして俺は悲しかった。
瞠に会いたかった。瞠は俺のすることを、何でも許してくれる。俺を怒っても、俺を嫌いにはならない。
怖い顔をした鉄平は、俺を今でも嫌ってる気がする。
「お手。おかわり。チンチン。取って来い」
槙原先生は賢太郎に色々やらせようとした。
俺たちは公園のベンチに座っていた。お昼をおごってくれると言われたけど、賢太郎は入れないから外にして貰った。
偶然、槙原先生に会った。というよりも、鉄平の話を聞きに先生の塾へ行った時に見つかってしまった。
俺は逃げて、先生は追っかけて――半日くらい色々あったんだけど、今ここに至る。
「みんな、元気?」
「元気だよ。今年は受験だから大変」
「みんなには言わないで。俺に会ったこと」
槙原先生は、弱ったなという顔をした。
「僕は顔に出るからなあ……」
「出さないでよ」
「戻って来ないの? 学校嫌い?」
先生は優しく笑った。俺は先生が少し苦手だった。苦手と言うか窮屈なんだ。
鉄平のことで、俺と兄ちゃんがひどいことをした。だから、この人にわがままや贅沢は言えない。
「お家には帰りなさいよ」
「やだ」
「津久居君にはもう会ったの?」
「会ったよ。でも、兄ちゃんは気付いてないから、内緒にして」
「うん?」
「鉄平の時計、してないの?」
先生の腕を見て俺は驚いた。形見の腕時計を、俺は先生に譲ったんだ。その方が鉄平が喜ぶと思ったから。
「ああ、そうなんだ。悪いことを考えないようになるまで、時期を置きなさいって言われて……」
「悪いことって?」
「……嫌なことかな」
「だったら、返して。しまっておかれたら鉄平がかわいそうだ」
槙原先生は目を見開いた。
眉を下げながら、俺は文句を言う。
「どこかにしまうなら、鉄平の家族にやる。大事にしてくれると思ったから、あんたにあげたのに」
「ごめんね……」
俺は槙原先生を見た。傷一つない顔に、ベンチの上で膝を抱える。
「顔に怪我なんて、ないじゃんな。誠二は誰と見間違えたんだろう」
「え?」
「鉄平はさ、あんたに会おうとしてたんだよ。だけど、勇気が出なかった。……俺も出なかった。あいつの弟だから、あんた嫌うと思って」
「…………」
「だから、誠二が会いに行ってくれたんだ。顔に傷があって、怖い人だったって言ってた。話を聞いてくれなかったって」
鉄平の塞ぎ込みようはひどかった。薬を撒かれた草みたいに、鉄平はしおれて泣いた。
「誠二のせいじゃないけど、見間違いしてなかったらって思う。……今さら言っても遅いけど」
「神波さんが……?」
「誠二は悪くないよ。あいつは俺たちを助けてくれた。鉄平を匿ってくれたし、誰にも言わないでいてくれたんだ」
慌てて否定して、俺はうつむいた。
「……悪いのは俺だ。鉄平との約束、全部守んなかった。……俺が言ったのに。兄ちゃんに復讐してやるって」
ため息をついて、槙原先生の顔を伺う。
先生はぼんやりしていた。むっとして、ぱちんと膝を叩く。
「聞いてんの。大事な話してんのに」
「え? あ……。聞いてる、聞いてる」
「もういいよ。あんたはもうちょっと、鉄平のこと大事にしてくれると思ってたのに」
帽子を被って、俺は立ち上がった。待っていたかのように、賢太郎が尻尾を振る。
しょんぼりした気持ちを堪えて、槙原先生に別れを告げる。
「じゃあな。みんなには絶対内緒だよ。約束して」
「約束は出来ないよ。あの子たちは君のことを心配してる」
「手紙を書くよ」
「御影君、君はあれだけの迷惑をかけたんだよ。ちゃんとあの子たちに説明する義務があるでしょう」
槙原先生の声が大きくなった。眉を寄せて、俺は困惑する。
「怒ってんの?」
「怒っ……。怒ってはいるよ。だめだよ、学校行かなきゃ」
「さっきはそんな言い方じゃなかった。なんで? 鉄平の時計、返せっつったから怒ってんの?」
「…………」
「欲しいなら持ってていいよ。取り上げるつもりとかねえし。ごめんな?」
槙原先生は、またぼんやりした。
さっきはむっとしちゃったけど、元からこういう人なんだろう。仲良くしたかったから、俺は笑った。
「じゃあな、先生。みんなによろしく」
芝生の上を賢太郎が駆けていく。遅れないように、俺も全力で走った。
振り返って手を振ったけど、先生は俺を見てなかった。