April 1st is
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「――ごめんね、自転車借りちゃって。空気入れて返すね」
お礼を言うと、自転車の持ち主は、皺を刻んで笑った。
子供の頃からタメ口で話してるせいで、敬語は自然と出てこない。
戸塚さんはいい人で、主任牧師と言うよりも、おじいちゃんみたいな人だ。
「いいよ、いいよ。調整までして貰って助かった。キイキイうるさくてね」
「本当は油差しちゃダメなんだけど、すぐに使うの俺だし。ちゃんとまた修理して返すよ」
「油差しちゃいけないのかい? 音が直ったのに」
「ブレーキが利かなくなるんだよね。油が落ちれば元に……」
「そんな自転車に乗ったらいかん!」
突然、戸塚さんは怒鳴った。
道場破りを追い払う道場主みたいだった。愛想笑いしながら、俺は自転車に跨る。
「大丈夫だって、前もやったことあるし。サドルも下げたから、足で止められるし……」
「車が急に出てきたらどうするんだ。バスを使いなさい」
「でも、急いでるから……」
「神波君に送って貰えばいい。まだ部屋に……」
「いい、いい。絶対いい」
そらきた、と俺はペダルを踏んだ。逃げるようにして、自転車をこぎ出す。
「瞠くん!」
「大丈夫だよ、絶対返すから! またね!」
誤魔化すように笑って、視線を前に戻した。
直後、心臓が止まるかと思った。
咥え煙草の不良牧師が目の前にいたからだ。
「何やってるの」
「……あんたこそ」
「洗車の準備」
片手に持ったバケツを持ちあげて、誠二はそう言った。
こんな天気のいい日は、誰でも外に出たくなるらしい。
「あっそう」
重々しく頷いて、俺はペダルを踏み込んだ。
煙をよける仕草が大げさだったのは、我ながら子供じみていた。
誕生日おめでとうと言われても複雑だったけど、けろりと忘れた顔をしてるのも腹が立つ。
自分の存在の軽さに、慣れてはいるけれど。
「瞠くん、待ちなさい!」
「どうしたんですか?」
「壊れた自転車で出かけようとするからさ……」
二人の話し声を背中に、俺は自転車をこぎ始めた。
四月の風は気持ちが良く、髪をくすぐられるたびに、耳元がさわさわした。
どんよりした雲は一つもなく、真っ白で大きな雲が浮かんでいる。
入道雲はあのくらいだっただかな。もっと大きかった?
空から山道に視線を戻して、俺は右ハンドルのブレーキを絞った。
やっぱり、効きが悪い。だけど足を付けば、ずずずと止まる。
楽勝と俺は思った。田舎者の自転車歴を舐めないで欲しい。
機嫌良く自転車をこいでいると、物凄いスピードで車が俺を追い抜いた。
タイヤに蹴られれた砂利石が、ぴょんと高く飛び跳ねる。
見慣れた車体は、前方で停車して、俺を閉口させた。
「乗せて行ってあげようか」
窓から顔を出した誠二は、鬼の首を取ったようだった。
ペダルをこいで、俺は傍らを通り過ぎる。
「いいよ、別に……」
「自転車パンクしてるんでしょ」
「パンクじゃねえし」
「どこに行くの?」
「茅サン、迎えに行く」
「だったら、よけいに車で行けばいいじゃない。二人乗りして帰って来るつもり?」
運転席を振り返って、俺は誠二を一瞥した。
「そうだよ。大丈夫だから、帰っていいよ」
俺が振り向かずに、山道の木陰を走っていく。木の枝が複雑な模様を地面に描いている。
その上を行く。
前進を続けても、タイヤが動く音はしばらくしなかった。誠二の顔が見えなくなった頃、俺は後ろを振り返る。
車体は脇道に入っていた。
Uターンの準備をしているんだろう。
窮屈そうな車の動きは、寂しそうにも、怒っているようにも、素っ気なくも見えた。
俺はすぐに顔を戻して、効かないブレーキを握る。
もう一度心の中で唱えた。楽勝。
楽勝だ。
足を付ければ自転車は止まる。名前しかなくても、名字は貰える。
本当の誕生日がわからなくても、俺には誕生日があって、祝って貰える。
だけどーー
(俺を産んだ人は、俺を産んだ日に、俺のことを思い出したりするんだろうか)
気に病んでいたらかわいそうだ。
20分ほど走ると整備された道に変わった。大きな国道を通り過ぎて、駅を横目に進んでいく。
ちょうど交差点の手前で、着信音が響いた。茅サンからだった。
「はいはい、どうしたー?」
信号が青に変わり、片手運転しながら、俺は進んだ。
『久保谷、今どこにいる?』
「駅を過ぎたところ。後10分か、15分で寺前だと思うけど」
『わかった。ならいい』
「どうした?」
『近所の人が車で送ってくれると言ってくれたんだ』
「あ……」
『君が来るなら待つよ。ありがとう』
通話が切れて、ずしりとペダルが重くなった。
ありがとうと言った茅サンは、怒ってはいなかった。
だけど、知らない場所で待ちくたびれて、疲れているんだ。車で帰れた方が、良かったに決まっている。
変に意地を張らないで、誠二の車に乗せて貰えば良かった。そうすれば、茅サンは待つこともなかった。
俺はいつも、よけなことをしてしまう。
役に立ってるつもりで、頑張ってるつもりで、いつもよけいなことをしてしまう。
強すぎる春風が、畑の砂を空に舞いあげていた。ざらざらしたものが、目や口の中に飛び込んでくる。
歯を食いしばって、ぐいっと袖で目を擦った。
砂煙の中に突入する。背中を丸めて、俺は自転車をこいでいく。
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