April 1st is
春の陽射しの下、マッキーの手元で風車が回っていた。
幽霊棟の外水道で靴を洗っていた俺は、手を止めて顔を上げる。前髪がおでこにちくちく刺さって、手の甲で掻いた。指先は泡だらけだった。
「どうしたの、それ」
外水道の蛇口付近に、風車を輪ゴムで止めようとしながら、マッキーは言った。
「雑誌の付録についてたから作ったんだ」
「へえ、すごいね! マッキーが作ったの?」
感激した声を出すと、マッキーは嬉しそうに頷いた。
つられて頬を緩めながら、俺はタワシで運動靴を擦る。泥が落ちると白っぽい生地が見えて爽快だった。
「風車、昔みんなに買って来たんだよ。茅サンと駄菓子屋に行って」
「茅君と? 珍しいね」
マッキーは身を屈めて、俺の髪から泡を拭った。覗きこむ顔が近くて気恥かしい。
下を向くと、また前髪がちくちくして、手の甲でごしごし額を掻いた。ひとつ前の春を思い出して、俺は苦笑を浮かべる。
「あの日は色々大変だったんだ。全部俺が悪いんだけど」
「また卑屈なこと言う」
「違う違う。そうじゃなくて、あの日ばっかは本当なんだ。茅サンが迷子になって……」
「おでこ、かゆいの?」
「え?」
「掻いてあげようか?」
「い、いいよ……」
赤面して俺は指でおでこを掻いた。指先についた泡が額に付着する。
真っ白になっていく靴を見降ろしながら、俺は去年の誕生日を思い出していた。
俺が教会に捨てられていたのは12月。
一緒に俺の名前が書かれた、クリスマスカードが置いてあった。
赤ん坊を見た教会の牧師さんは、町の病院に連れて行った。
8ヶ月ぐらいじゃないですか、お医者さんは言った。
だから、牧師さんはぐるっと時間を巻き戻して、俺の誕生日を4月1日に決めた。
4月1日が誕生日なのは難しい。
誕生日おめでとうは、嘘かも知れないから。
4月1日の朝、携帯を手にさっちゃんが食堂に降りてきた。
「瞠、晃弘が……。あ、誕生日おめでとう」
「あ、どうも」
朝飯を食いながら、俺は頭を下げた。
思い出したように、キッチンの方からレンレンの声が飛ぶ。
「そうだ、おめでとう」
誕生日のお祝いは、三日後に、茅サンと一緒にして貰うことになってる。
事務的な挨拶は、かえって気恥かしかった。
俺はおどけて、テーブルの上で、土下座のジェスチャーをしてみせる。
「ありがとうございます。やっと皆さんに追いつきました」
「何言ってるの、一番上でしょ」
「一番下だよ。4月1日までは、何故か上に学級なんだぜ」
「そうなの!?」
とんでもない政策を聞いた政治記者のように、さっちゃんは大声を出した。
びっくりしたというよりも非難めいていた。誠に遺憾ですという感じだ。
「なんだよ、前も言っただろうが」
「お兄ちゃんぽいから」
「前も言ったよ」
「忘れた」
「おまえと清史郎は末っ子って感じだよな」
「僕は長男。本当の末っ子はこっち」
携帯電話を渡されて、俺は首を傾げた。
「何?」
「晃弘。道に迷ったって」
納豆ご飯を食べながら、俺は目を見開いた。
茅サンはランニングに出ていたはずだ。
時計を見上げると、いつもならとっくに帰っている時間だった。
「春人が出ないから、僕に掛かってきた」
休みの日にハルたんがこの時間に起きてるわけがない。
「瞠の方が近所に詳しいでしょ」
「清ちゃんだって詳しいだろ」
「清史郎はいない」
「どこ行ったの?」
「知らない。準備してるんじゃない」
今日はエイプリルフールだから、とさっちゃんは付けたした。
しぶしぶ携帯を掴もうとすると「納豆拭いて」と布巾を渡される。
指先を拭って、俺は携帯電話を耳に当てた。声を出す時、緊張した。
「も、もしもし?」
『君か』
露骨に不機嫌な声だ。
胃の中の納豆が、小石になったような感じがした。俺は笑って、自分で自分のテンションを上げた。
「えーと、えーと、今どちらにいらっしゃるんです?」
『わからない。米屋がある』
「なんていう米屋?」
『澤口米穀店』
「わかんねえなあ……。他には?」
『畑』
「他は?」
『道』
なんでこの人は迷子のくせに偉そうなんだろう。
ひるみながら、にこやかに質問を続ける。
「なんかさ、電柱ない? 電柱に住所書いてあると思うけど」
『しばらく先にある。行ってみた方が?』
「ご足労おかけしますけど」
『わかった』
茅サンが辿りつくのを待って、俺は沈黙した。
俺の飯を食いながら、横からさっちゃんが口を出す。
「いつもとコース変えたの? 迷子なんて」
「ちょ、おま……。ミートボール食うなよ!」
「僕の三つしかなかった」
「俺だって三つしか……。レンレン、ミートボール食われたー」
「もうねえよ。白峰と茅の分しか」
「まだあるの?」
「ねえつってんだよ!」
さっちゃんがキッチンに向かい、攻防が繰り広げられる。
そのうちに、茅サンの声がした。
『あったよ』
「さすがです。住所書いてないっスか」
『久保谷町郷原789』
「あー、郷原まで行ったのか。そっちわかんねえな、ちょっと待ってて」
電話帳の傍においてあった地図を探す。
リスのようにほっぺたをもぐもぐさせながら、さっちゃんが言った。
「GPSは?」
「おめー、みんな食ったのかよ」
「晃弘にGPS使えって」
さっちゃんのアイデアを伝えるのは、気が進まなかった。
茅サンはアドレス帳ボタンと、発信ボタンしか区別がついていないからだ。
よくわからない画面になったら、電源を一回落として、また付けるというテクニックは先日取得した。
「茅サン、GPS機能を使って頂けませんか」
『電柱で? 電柱のどんな機能?』
「いや、茅サンの……」
『僕の機能?』
「いや……」
『僕のどの機能?』
迷子の声がいらいらし始めている。
泣き出しそうになりながら、電話口を押さえて俺は首を振った。
「茅っぺには無理そうです」
冷凍したベーコンを片手に、レンレンがキッチンから顔を覗かせた。
ミートボールがなくなったせいで、ベーコンを焼くはめになったらしい。
「タクシー掴まえて帰ってこいよ。それが一番早いだろ?」
俺は茅サンに伝えて、もう一度首を振った。
「お金持ってないって」
「こっちに着いたら払えばいい」
「タクシーどころか、車一つ見つからないって」
「走って帰ってこいよ。走るの得意だろ」
「だから、走ってる途中で迷子に……」
「迷子になるくらいなら、ランニングなんかするなよ」
名言を発したかのように、レンレンは踏ん反り返る。
自体が少しも好転しない、誰もがわかっていることをのたまって、レンレンは鼻歌まじりにキッチンに戻った。
自分の義務は果たしたとばかりに、さっちゃんもどこかに消えていく。
みんな自由人だ。覚悟を決めて、俺は言った。
「わかった。茅サン、迎えに行くよ」
『いつ頃?』
「どっかでチャリ借りて、郷原だったら急いで30分くらい……」
『今は寺前と言う所にいる』
「なんでじっとしてないんスか!? なんで高速で移動するの!?」
『走ってるから……』
「止まって!」
『ここで?』
いっそそうして欲しかったが、やはり温情が働いた。
「どっか日影で、休める所でさ」
『電柱の日影しか……』
「ああ、茅サンは入らないね。困ったね」
『そうだね』
「周りに畑しかねえの?」
『ニワトリ小屋ならある』
「そこ休めそう?」
『……。どう思う?』
「すいません……」
電話をしていても埒が明かない。
俺は通話しながら、上着を着込んだ。
「とにかく行くよ。これ、さっちゃんの携帯だから、俺の携帯に電話して貰ってもいい?」
『わかった。もう一つ、困ったことがあるんだ』
「どうしたの?」
『お腹が空いた』
「レンレン、おにぎり作ってー!」
通話を切って、俺はキッチンに飛び込んだ。
献立がスケジュール通りにいかないレンレンは、青筋を立てて怒っていた。
「戻って来てから食えよ! ベーコン戻しちまっただろ」
「お腹を空かせた子が待ってるんだよー」
「ベーコンどうすんだよ。おまえの分もあるんだぜ。白峰一人に食わせるのかよ」
「じゃあ、ベーコン巻きおにぎりにして」
視線を上げて思案した後、レンレンは了承してくれた。作ってみたくなったらしい。
ベーコン巻きおにぎりが作られる間に、俺は身支度を整えた。窓の外を見ると、上着はいらなそうだ。
真っ青な空が広がっている。
「行ってきます。さっちゃんの携帯、ここ置いておくね」
「ああ。早く帰ってこいよ」
携帯とお弁当を持って、寮の外に出る。空は小春日和で、暑いくらいだった。
どこかで自転車を借りて行こう。
できれば学友たちに借りたいけど、春休みだから、学生寮にいるかいないかもわからない。
戸塚さんという主任牧師さんが、たしか自転車を持っていたはずだ。本人と同じくらい、年季の入ったガタガタのやつ。
牧師舎に向かいながら、俺はため息をついた。
こんな日に牧師舎に向かうのは嫌だった。去年は牧師舎で誕生日を祝って貰ったけど、今年はお互い口に出さなかったから。
顔を合わせなくて済むように祈ってるうちに、上着のポケットで携帯が鳴った。
「もしもし」
『電話したよ』
「うん。落ち着けるところ見つかった?」
『野菜の無人販売所があった。軒を貸して貰っている』
通りかかった人には、茅サンが売っているように見えるだろう。
「わかった。近くの住所わかる?」
『久保谷町寺前42』
「OK。行ったことないけど、たぶんわかると思う」
通話を切ろうとして、俺は少し迷った。
茅サンは一人で心細いかもしれない。ぶっきらぼうな対応も、さびしさの裏返しなのかも。
「……このまま、電話繋いでおく?」
『いや』
「はい。すいません」
恥ずかしくなりながら、俺は通話を切った。
品行方正、成績優秀、文武両道な人物だというのに、初対面の印象が強くて、どうしても俺は過保護になりがちだ。
だから、鬱陶しがられるのかな。
(クールに行こう、クールに……)
桜の蕾は芽吹きはじめていた。
数日後の花見には、見頃になるだろう。
春の風は強かった。風を追い抜くように、俺は駈け出した。