May 5th is
May 5th is
例の事件の後も、たくさんの疑問が残っていた。
青い表紙のネヴァジスタもその一つだった。その物語をみんなに話した後、しばらくして、久保谷君が言った。話したいことがあるんだ。
その日、僕は神波さんの正体を知った。
僕は神波さんが好きだった。神波さんは僕の理想だった。穏やかで、取り乱さず、子供たちの本質を見ている。
僕は彼になりたかった。
彼のような人になれば、僕の欲しい物に手が届く気がしたんだ。
運転席の神波さんは、始終無言だった。晴れ渡った空から青い風が吹き、彼の髪をなびかせている。
助手席に座った僕は、つまらないラジオを聞いていた。GWの混雑をどのパーソナリティも伝えている。
車の中に久保谷君はいなかった。
「ちょっと用事が出来て。絶対に後から行くから、二人で先に行ってて欲しいんだ」
申し訳なさそうに、久保谷君はそう言った。
「本当にごめん。お願いだから、そうして欲しいんだ」
そんな事情で僕らは二人で三浦半島に向かっている。僕も彼もノーと言わなかったのは、試されてる気がしたからかもしれない。
大人の本領という奴を。
「久保谷君、どうやって来るつもりだろう」
「さあ」
神波さんは素っ気なかった。フロントだけ見つめる視線が、そう思わせたのかもしれない。
「電車で来るんじゃないの」
僕は彼を見つめた。神波さんは役者のようにハンサムだ。彼がにこやかなハンサムだった時、彼はちっとも不幸じゃなさそうだった。
今は違う。表情を押し殺した彼は、救えないほど孤独だった。
「GWは他に、どこか出かけるんですか?」
神波さんは答えなかった。彼の個人的な趣味は、あまり知らない。無趣味な人は長期休暇になにをするんだろう。
「お母さんのお墓参りとかは?」
氷のような目で、彼は僕を一瞥した。手を振って、僕は誤解を解く。
「違います。古川君のお墓参りに行こうかなと思って。GWにお墓参りっておかしいのかな」
「好きなときに行けばいいんじゃないの」
「そうですよね」
神波さんの正体を知ったとき、僕は激しいショックを受けた。僕よりも深く、子供たちがショックを受けていた。あの季節は地獄だった。
彼を嫌うには十分な理由があるように、嫌えない理由も十分にあった。憧れた人だった。久保谷君の親代わりだった。あの子たちにひどいことをしたけど、古川君のことでは僕を支えてくれた。
彼も被害者だった。
「古川君は大学に進学して、警察官になるようにって言われてたんです。別に押しつけじゃなくて、最初は古川君の本当の夢で……」
シートベルトをなぞりながら僕は続けた。
「それでも、違う夢を持ったとき、ご両親に話せなかった。親の期待を裏切るのは、つらいんだと思いました。だから、貴方がお母さんの遺言を……」
「ここで降りる?」
冷たい声に、僕は嘆息した。
「長時間のドライブは退屈でしょ。何か喋りましょうよ」
「暇潰しにいい話題だね」
「天気の話をしても仕方がないじゃないですか。貴方が不幸だったことも、後悔してることもわかるけど、そんな態度じゃ久保谷君がかわいそうだ」
「誰が後悔してるって?」
「してないんですか?」
「欠片もね。ヒューマンドラマの見過ぎじゃない」
「だったら、自分に言い訳するのをやめればいいのに」
手のひらを叩きつけるように、神波さんはクラクションを鳴らした。
「何です?」
「猫だよ。飛び出してきた。集中力が乱れるから、話しかけないで」
「運転、不慣れなんですか」
神波さんは強くハンドルを握った。僕は肩を竦めて、窓の外を眺める。
「ゆっくり運転してください。集中力の乱れる話しかできないと思うので」
「ねえ、性格悪いって言われない?」
「貴方に言われると思わなかったな……。今は天気の話より、神波さんの話をしたいだけですよ」
「話すことなんてないよ。ネヴァジスタと瞠くんが全部喋ったでしょ。それだけだよ」
「あれは過去の話じゃないですか。貴方のこれからの話は、どの本に載ってるんです?」
「俺が知りたいよ」
「じゃあ、今お喋りしましょうよ。建設的に」
「なんで君と建設的にならなきゃいけないんだよ!」
アクセルを踏み込んで、神波さんは声を荒げた。子供っぽい罵声に僕は目を丸くする。
「誰とだったら、建設的な話が出来るんです? 花ちゃん?」
「ぶっ殺すよ……」
「久保谷君とは出来ないでしょ。久保谷君が後ろ向きなのは、絶対貴方の影響なんだから」
「そうかもね。あの子を連れていって、好きに養育したらいいじゃない」
「なんで心にも無いこと言うかなあ。辻村君そっくり」
「何が目的なんだよ。俺をどうしたいわけ? 何て言って欲しいの?」
赤信号で急停車して、神波さんは僕を睨んだ。彼の声はいばらのようだった。無防備に眠るお姫様が中にいるのかもしれない。この人の家系はたいがいそうだ。
「貴方はなんて言って欲しいんですか?」
神波さんは返答に窮して、煙草に火をつけた。車内に煙が漂って、僕は窓を開ける。
僕の腕時計を見た神波さんが、非情に口端を上げた。以前は想像も出来なかったけど、彼は恐ろしく嘲笑の似合う人だった。
「人のことより、自分の心配をしたらどう。生徒の形見を身につけて教員を続けるなんて、自己陶酔もいいところだよ。また間違いを犯す前に、教壇を降りたら」
「教師は向いてるって言ってくれたのに」
「リップサービスだよ。辞めると思ったからね」
僕はため息をついて、シートを勝手に倒した。かなりショックだった。
眼鏡を外して、ポケットにしまいこむ。
「寝ます。高速降りたら起こして下さい」
「いいご身分だね」
「だって神波さん、いやなことしか言わないんだもん」
「形見なんて身につけてると、とりつかれるよ」
僕は瞼をあけた。
神波さんの声には、どこか真剣味があった。僕は彼の耳の後ろを眺めて尋ねる。
「お母さんの形見持ってます?」
「ないよ」
「全部処分したんですか?」
「施設の人たちがね。俺がいらないと言ったそうだけど、覚えてないよ。そんな昔のこと」
日光が眩しくて、僕は腕で両目を覆った。頬に当たった時計の文字盤が冷たかった。
「何か持っていれば良かったのに。持ってても、お母さんはとりつかなかったと思うな。とりつくほどの関心があったら、貴方にあんなことしなかったよ」
神波さんは何も言わなかった。
変わった鳥の鳴き声が、遠くの方から聞こえた。
「まともな親だったら、子供の目の前で死んだりしない」
「俺はいくつかの家を壊した。殺さなくても、その家が不幸になれば、十分な復讐だと思ったからだ」
視界を覆う腕をどかした、僕は彼を見た。
彼も僕を見ていた。苛烈な憎悪を宿して、悪魔のように睨んでいる。
「殺してやりたいと思ったのは、君が初めてだよ」
僕は感銘を受けなかった。色々な人に言われ慣れた台詞だったから。
仲がいい人は、必ずそう言って、僕の前を去っていった。古川君も。ゆっこも。過去の友達も恋人も。
僕は空を見上げた。窓の外の青空は、どこまでも高く澄み渡っている。鮮やかな青が目にしみた。
「久保谷君と仲良くしてよ」
自然にタメ口がついて出た。
「あの子がかわいそうだ。他の子供たちも、貴方を許そうとしてるのに」
「何も感じられないだけだよ。初めの10年はそんなものさ」
口元を歪ませて、神波さんは笑う。
「10年後、あの子たちは俺を殺しに来る。子供時代に失った物は、大人にならないと気づかないんだ」
「貴方は10年かかった?」
「そうだ」
「その10年は何してた?」
「何も」
聞いたことのあるイントロが、カーステレオから流れた。
「俺の人生には何もないよ」
僕らはしばらく音楽に耳を澄ました。
男性ボーカルの洋楽は、有名な曲だった。神波さんも知ってるようだ。
「スティングの……」
「ああ。イングリッシュマン・イン・ニューヨーク」
神波さんがボリュームを上げた。寂しげで淡泊なメロディに、レゲエのリズムが混ざるユニークな曲。
歌詞はニューヨークに住むイギリス人の異質さと孤独を歌っている。僕はエイリアン。合法的なエイリアン。
続けざまに煙草に火をつけて、神波さんが言った。
「君みたいな男だね」
意外な台詞だった。瞬きして、首を傾げる。
「こんなに上品そうですか?」
「違うよ、エイリアンさ。君は人に混じってるつもりでも、実際は永久に異端で、疎外され続けるんだよ」
様になる冷笑で、彼は僕を見下した。
僕は目を眇め、視線を逸らした。人が気にしていることをずばりと言う。嫌な人だ。
前はそれに、ちゃんとフォローがついてきた。彼に誉められるだけで、僕は自信が持てた。僕の努力を知っている人がいる。肯定的に背中を押してくれる人がいる。
彼の存在が、どんなに心強かったことか。
それきり僕らは沈黙した。神波さんの車でスティングがイングリッシュマン・イン・ニューヨークを歌い続ける。神波さんこそ、歌詞の男のようだと思った。エイリアン。合法的なエイリアン……。
顔面を叩かれて目を覚ました。
「いっ……」
「高速降りたけど。どっちに行けばいいの?」
「……何で殴りました? また聖書じゃないでしょうね」
「出先にまで持ち歩かないよ。道路情報地図」
睨み上げると、彼が道路情報地図をめくっていた。眼鏡をしていたら、鼻に跡がついただろう。
「どっち方面だっけ? 横須賀市街地抜ければいい?」
「はい。あれ、本についてる付箋はなんです?」
「辻村や白峰や茅の家だよ。念入りに調べて何度も視察したんだ。君は一秒も俺にまともな会話をさせないつもりだね」
「そんな所まで込み入ってるとは思わなかったんです……」
神波さんは敵意の固まりだ。
鼻をさすりながら、彼が言った台詞について考える。たしかに、彼の身の回りそこらかしこに、そのことが染み着いていた。そのことが彼の人生だったんだ。
失われた10年。そのことしかない10年。
彼が彼らしくいた時間はどこだろう。
「貴方もわがまま言えばいいのに」
思わず、口にしていた。
神波さんは眉を上げて、僕に煙を吹きかける。
「辞職して。ジンバブエに行って。独裁政権に逆らって。拷問死して」
「熱いリクエストありがとうございます」
「昼奢ってよ」
「いいですよ、運転してもらったし。何がいいんですか」
「海軍カレー」
案外ミーハーだ。僕はシートを起こして、道案内した。
初夏の陽射しを青い海が照り返していた。海沿いの道を休日の車が元気に走っていく。
誰が植えたかわからない椰子の木が、南国っぽい風景にしていた。ちょっと無理矢理だけど、海にはやっぱり椰子の木が似合う。
「海が近い家なんていいね」
快適なドライブに気持ちが緩んだのか、神波さんから話しかけてくれた。頬を緩めて、水平線を見つめる。
「そうですか? 海は好きです?」
「そうでもないけど、景色がきれいでいい。あの町は山しかないから陰気だよ」
「町を出ようと思ったことはなかったんですか」
「真っ直ぐでいいの?」
「あ、はい」
タイミング良く道を尋ねられ、会話は消えてしまった。僕は神波さんを気にしながら、道案内を続ける。
「この先の交差点を左折して、しばらく行くとダイバーショップがあります。そこの斜め前が僕の家」
「いつ頃から帰ってないの」
「去年の夏かな」
神波さんが車を進めると、僕が説明した通りの店が出てきた。
年明けに改装すると言っていたけど、僕の家は変わりなかった。ペンキの褪せた木製の看板も。砂利の代わりに貝殻のクズが敷かれた庭も。
客用駐車場に車を止めて、僕は店に向かう。GWのせいか、昼過ぎでも店内は混み合っていた。開放的な窓から海が見える。こんな晴れた日はテラス席が人気だった。
「ただいまー」
いらっしゃいませ、と言いかけた上の姉が目を丸くする。大きかった姉のお腹は元に戻っていた。
「渉! あんたはまた急に」
お客さんに呼び止められて、姉がテーブルに向かう。店内を見渡す神波さんを連れて、僕はカウンター越しに両親に挨拶した。
「ただいま」
「あら、おかえり。急にお客さん連れて来るって言うから、お姉ちゃん部屋の片づけ大変だったのよ。あんたの部屋物置になってたし。お礼言っておきな」
「うん。赤ちゃんは?」
母さんが答える前に、ぐいっと姉に腕を引かれた。
「おっぱいの時間なの。その間入っててよ」
「えー。お客さんがいるのに……」
「すぐだから! フロア入って、注文は全部取ってあるから」
「赤ちゃん見たいな。名前なんだっけ? 今いくつ?」
「後でね。早くして。あんたまた怪我したって?」
質問をしておきながら、忙しなく姉は背中を向ける。僕は彼女を呼び止めて、家族に神波さんを紹介した。
「神波さん。学校でお世話になってる牧師さん」
「牧師さん!?」
姉も母も父も、声を揃えて驚いた。お客さんも彼を振り返る。
「神波です。本日は突然お邪魔して申し訳ありません」
僕と同じような態度を取ると思ったら、神波さんはにこやかだった。外面のいい人だ。
「生の牧師さん初めて見た……」
「あらあら、渉が大変お世話になっています。汚い店だけど、ゆっくりしていって下さい。お食事はもう?」
「ええ。済まして来ました」
「じゃあ、母さんあれだ。生がいいかな?」
「牧師さんはお酒なんか飲まないでしょうよ。コーヒーとお茶どちらがいいですか」
エプロンをかぶりながら僕は言った。
「その人は飲むよ。ビールでいいですか? テラスの空いてる所座ってて下さい」
「……昼間から飲むの?」
「もう3時ですよ。母さん、つまみもなんか適当に」
「はいはい、食べれないものないの? ビールならソーセージがいいかしらね。ピクルスもあるけど。バーニャカウダーも最近始めたのよ。ほら、流行ってるから」
「なんでもいいよ。伝票って今どこにあるの?」
「すいませーん」
「ほら! 注文取っておいで」
「渉! 先にお友達にビール持ってきな」
いくつもの声が店内に飛び交う。僕は神波さんを手早くテラスに案内してビールと灰皿を提供した。その足で小走りにお客さんの元に向かう。
面食らったように、神波さんが呟いていた。
「賑やかな家……」
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