May 5th is
僕が生まれた家では、いつも波の音がしていた。
強い風が吹く日には波音も激しく、太陽がかんかんと照りつける日には、潮の匂いがした。
部屋の窓からは、遠く水平線が見えた。海水浴場にも、漁港にもいまいちな、ちょっとした海岸線だ。それでも、海沿いの道は人気のドライブコースで、おかげさまで両親が営んでる洋食店には、そこそこお客さんが入っていた。海軍カレーやB級バーガーに手を出せば、もう少し儲かると思う。
両親の店を継ごうと思ったことは一度もなかった。大学に進学して、当たり前に家を出た。長男の自覚が足りないと、上の姉にはお小言を言われたけれど。
家を出てから8年。ホームシックにかられたことはなかった。仕送りで暮らしていた時も、アメリカに留学した時も、勤めていた塾の傍に引っ越した時も。
四角い窓から眺めた、夜の海だけ、何度か思い出した。
夜の海は青みがかっていて、ちかちかした光が絶えることはなかった。灯台の光だったのか、船の光だったのか、今でもわからない。見てるときは気になるけど、朝になると忘れちゃうんだ。
今住んでいる場所に、波の音はしない。鬱蒼とした木々の葉音が風の強さを伝える。山の天気は変わりやすくて、青空をなかなか信用できない。
ネクタイを締めるのは、昔より得意になった。鏡には眠たそうな男が写っている。彼は左腕の時計に話しかけた。
「また、君より年とっちゃうよ」
明日からGWだ。GWの後半戦に、僕の誕生日はある。5月5日だ。
「おはよう」
「おう」
食堂の扉を開けると辻村君がいた。朝の早い子だ。教師として一番乗りの起床を心がけたときもあったけど、今はもう諦めた。
テーブルには茅君のコップが出ていた。もう走りに行ったんだろう。茅君は水を一杯飲み干してからランニングに行く。
明るい日差しが寮の食堂に差し込んでいた。ずいぶん日が早くなったものだ。欠伸しながら、辻村君の隣に並ぶ。
「手伝う?」
僕を振り向いた辻村君が、眉を上げて笑った。フライ返しを握りながら、肘で軽くつつく。
「先に鏡見て来い。寝癖ついてるぞ」
「見たよ。しぶとい子だから諦めた」
「諦めるなよ」
辻村君につられて笑いながら、僕は手を洗った。冷蔵庫から豆腐を出して、手のひらの上で刻む。鍋に入れようとした時、お湯で濡らしたタオルを当てられた。
「こうやって押さえてろ」
「直りますかね」
タオルを乗せながら、僕は味噌を取り出した。今日は何曜日?と辻村君に尋ねる。
「金曜だから白味噌の日だな」
白味噌が好きな子と、赤味噌が好きな子と、合わせ味噌が好きな子がいるから、曜日ごとに決めて不平等が起きないようにしている。これが民主主義ってやつだ。
「おはよー」
階段を下りる音がして、久保谷君が顔を出した。タオルを乗せた僕を見て吹き出す。
「どしたの、マッキー。朝から湯上がりみたいに」
「寝癖ついちゃってさ。直った?」
タオルを外すと久保谷君は笑った。どうやら直ってないみたいだ。
「俺、ワックスしてやんよ。ちょっと待ってて」
楽しげに声を弾ませて、久保谷君は食堂を出ていく。味噌汁をかき混ぜてるうちに、整髪剤を持って戻ってきた。
久保谷君に促されて、ソファに腰掛ける。もさもさ髪の毛をいじられてると寝そうになった。
「マッキー、いつも何も使わないよね」
「使い方よくわかんなくてさ」
「わかんないことはないだろ……」
「別に変わんないんだもん。ベタっとするだけで」
「えっ、ベタっとするの嫌い?」
「うん」
途方に暮れたように久保谷君が沈黙した。顎を仰け反らせて、真下から笑う。
「別にいいよ。格好よくして」
久保谷君はさらに緊張した。僕は肩を揺らして、この子の腕をぽんぽんと叩く。
「何やってるの?」
和泉君がやってきた。おはようと挨拶すると、専務のように和泉君は頷いた。
「さっちゃん、レンレン手伝って来いよ。今日は俺、手が離せないから」
「得意げに何?」
「別に得意じゃないだろ。皿出してこい、箸並べて」
「そっちの方が楽しそう」
僕の隣に座る和泉君に、久保谷君が眉をつりあげる。兄弟ゲンカみたいな空気に笑って、和泉君の頭を撫でた。
「ごめんね、よろしく」
触れる手に片目を閉じて、和泉君は笑った。機嫌のいい猫みたいに。
身軽にソファから降りて、台所に向かいながら、和泉君が冗談を言う。
「お洒落して、デートの約束でもあるの」
「まあね。花の金曜日だし、放課後に職員会議だよ」
「マッキー、誰か口説けるといいねえ」
「結構アピってるんだけどね」
僕が同僚と不仲なのは、子供たちも良く知ってる。愚痴にならないように、ネタにして肩を竦めた。
僕が他の先生を嫌いだと、この子たちも嫌ってしまう。この子たちが他の先生ととけこめるように、僕がまず他の先生たちを尊敬しなければ。
反省して、僕は微笑んだ。
「悪い人じゃないんだけどね」
久保谷君も辻村君も和泉君も、無言で僕を見た。嘘を見抜く目だ。僕は心から反省した。
ランニングから茅君が帰ってきた。朝から天気がいいので汗だくだった。タオルを口元に押し当てて頭を下げる。
「おはようございます」
「おはよう。シャワー浴びてきたら? だめかな?」
「いつもタオルで済ませるんですけど」
「匂わない?」
茅君はシャツを引っ張って、鼻先に当てた。首を傾げている。僕は手招きして、茅君の匂いを嗅いだ。
「マッキー、動かないで」
「無臭だ。若さかね」
「どうでしょうか」
「僕はそのうち、加齢臭とかしちゃうんだろうな」
僕の嘆きに茅君は笑った。着替えて、白峰君を起こすために、階段を上っていく。
食事をテーブルに運びながら、辻村君はあきれた顔をした。
「おまえ、本当にデリカシーないよな。匂ったら臭いって言うのかよ」
「辻村君には言わないよ。傷ついちゃうから」
目元を染めた辻村君が、パンチの振りで手を上げる。笑い声を上げて、僕は頭をかばった。
「もー。じっとしないな、あんた」
僕の頭を押さえて、久保谷君が苦笑する。僕は膝の上に両手を置いて、おりこうなポーズをした。
「直りそう? 直らなかったら別にいいよ」
「良かねえよ。他の奴に笑われちゃうじゃん」
「そうだ。幽霊棟の奴らは何やってるんだって言われるだろ」
「言われないでしょ……?」
「先生だって言われるでしょ。僕らが何かすると」
「先生は先生だからね」
和泉君は眉を上げて、ばちんと僕の膝を叩いた。何か気に入らなかったらしい。
がたんと物音がして、僕らは顔を上げる。また白峰君が階段で転んだ。
「大丈夫かな」
「あの音は茅がキャッチしただろ」
「……あいたた……」
噂をしていると、膝を擦りながら白峰君が現れた。茅君に支えられて、かろうじて歩行している。痛みのせいじゃなく、眠気のせいだろう。
「おはよう、白峰君」
「……んー……」
「また転んだでしょ。昨日の映画、最後どうなった?」
「……ん……」
朝の白峰君とは、ほとんどまともに会話出来ない。わかっていながら、面白いので話しかけてしまう。口元をほころばせて、着席する白峰君を見守った。
食卓に全員が揃った。僕の寝癖も直ったみたいだ。
「いただきます」
「いただきますー」
朝の献立はごはんと味噌汁と目玉焼きとウィンナーだった。みんな一つ目玉だけど、和泉君だけ二つ目玉を食べる。二つないと目玉じゃないそうだ。
久保谷君はご飯に味噌汁をかけて食べるのが好きだけど、辻村君が怒るからあまりしない。白峰君は茶碗を持ったままうたた寝できる。茅君は良く噛むから食事が遅い。子供の頃に躾られたそうだ。
僕は食べ方が下手だと言われる。子供の頃から言われていた。クロワッサンなんか食べた時には、半分以上胸元に落ちてる。みんなどうやって、きれいに食べてるんだろう。
考える矢先に、箸からウィンナーが逃げた。
辻村君が軽蔑しきった顔をする。あの子は握り箸とか、迷い箸とか、くわえ箸とかとにかくうるさい。
「あー、数学小テストだ。今日行ったらGWだっていうのに」
久保谷君が嘆いた。もう一度ウィンナーを挟んで、僕はみんなに尋ねる。
「明日から帰省するの? それとも、後半戦に?」
「帰省なんかしねえよ」
「僕も」
「白峰もだよね」
茅君に尋ねられて、険しい顔で白峰君が頷く。眠気の第一ピークが過ぎて、白峰君はひどく不機嫌になっていた。本人に言わせると、別に不機嫌じゃないらしいけど、眉間の皺は茅君じゃなくても怖い。
箸をくわえて、僕はみんなを見渡した。
「おうちに帰りなよ。長期休暇なんて滅多にないんだから」
「くわえ箸するな」
「おうちの人だって、君たちが帰ってくるの待ってるよ。GWくらい、わがまま言ってきたら?」
「僕らは日頃からわがままだよ」
ごはんを頬張って和泉君が言う。僕は肩をすくめた。
「おうちの外ではでしょ。親にするのがわがままの醍醐味だよ。臑かじってきなさいって」
子供たちは複雑そうに目を見合わせた。学校ではふてぶてしくさえあるのに、内気な少年のようだ。
味噌汁を飲みながら、僕は微笑んだ。
「何も心配いらないよ。困ったことがあったら、僕に連絡すればいい。家庭訪問してあげるから」
「先生は、ここにいるんでしょ」
和泉君は眉を下げて、空になったお茶碗を辻村君に渡した。
「たぶんね。行くところもないし」
「なら、残る。先生と一緒のがいい」
僕はどきりとした。お釜からごはんをよそう、辻村君もすまして言う。
「移動も面倒くさいしな。家に帰ってもすることないし」
「僕もそのつもりです。いけませんか?」
「白峰君も? 帰って来いって言われたでしょ」
「断った」
僕は沈黙した。子供たちは楽しげに身を乗り出す。
「先生、どっか連れてってよ」
「いいな。どうせ予定なんてないんだろ」
「そこまで遠出じゃなくてもさ。みんなで一緒に出かけようよ」
目を輝かせる子供たちに、胸がざわついた。この子たちの反応は古川君そのものだった。
――別に家に帰らなくても平気だよ。
――それより、先生。どこかに連れてってよ。お金が掛からないところでいいからさ。
――ねえ、先生……。
「君たちが家に帰るって約束したらね」
不満げに、困惑気味に、悲しそうに、子供たちは互いの顔を探った。最初にぽつりと白峰君が呟いた。
「じゃあ、帰ろうかな。どこかで……」
「一日くらいなら……」
「絶対、約束だよ。どこか連れていって」
遊園地に行く条件で、宿題を済ませるみたいに、みんな帰省を決めていく。悲しいことだけど、進歩があった。前なら絶対、帰るとは言わなかった。
「わかった、いいよ。混んでないところがいいね」
「牧場に行きたい。アイスがおいしいんだって」
「天文台に行こうよ。近くでキャンプも出来るんだ」
「賢太郎も呼んでいい?」
「最後の一時間だけなら」
子供たちが笑って、精一杯明るく僕も笑った。左腕の時計が重かった。
「しばらく、俺と二人になるね」
清掃の終了を報告しに来た久保谷君がそう言った。点検表に鍵の受領のサインをしながら僕は返答する。
「君は牧師舎に行ったら?」
「……なんで」
「神波さんの部屋広かったから、君一人くらい泊まれるでしょ。布団が足りなかったら、運ぶの手伝って上げる」
「なんでだよ。なんで追い出そうとすんの」
書類を渡しながら、僕は久保谷君を見上げた。
「親にわがまま言ってきなさいって、みんなにも言ったでしょ」
「あいつは親じゃねえよ」
瞳を鋭くして、久保谷君は怖い顔をした。回転椅子を動かして、体ごと向かい合う。
久保谷君の腕を撫でて、僕は言い聞かせた。
「君のお父さんみたいな人じゃない。いい機会だよ。一生和解しないつもりでいるの」
それは僕自身に言い聞かせる言葉でもあった。
手ひどく傷つき、絶望して、怨恨の黒い炎に蝕まれそうになっているのは、僕よりも子供たちだ。僕が神波さんを毛嫌いし、恨み事を言い続けていたら、この子たちが真似してしまう。
良くない影響を与えたくなかった。津久居賢太郎を敵視したことで、僕は一度失敗しているのだから。
「神波さんだって、君と上手くやりたいはずだ。君がわがままを言ったら聞いてくれるよ」
「あんたはまだ、あいつに懐いてんのか。実は根はいい奴で、あいつが改心するとでも?」
「いい人だからとか、悪い人だからとかじゃない。君が神波さんを好きだからだ。だから、関係を修復……」
「あんたじゃだめなの?」
悲しげに久保谷君は眉を下げた。
「俺はあんたの方が好きだよ。誠二のことは好きだけど、誠二は俺が好きじゃないんだよ。俺を許さない、裏切ったから……」
「……そんなことはないよ」
「誠二は俺を憎んでるよ。教会にだって、俺は近づきたくない。会いたくないんだ。……そんなことさせないでよ」
僕は沈黙した。久保谷君につらいことを無理強いしたくはなかった。
だけど、左腕の時計が存在を訴える。あの子も親と上手くいかなくなって、僕を逃げ馬にして、そして……。
「俺があんたに依存すると思ってるの?」
額を覆って、僕は沈黙した。
気弱に拗ねた声で、久保谷君が僕の手を握り返す。接触には、ごめんなさいと、おねだりが含まれていた。
「……あんただって、家に帰んないじゃん。あんただって親にわがまま言えないんだろ」
「そんなことないって。君が思ってるより、僕の家はずっと普通だよ」
「下の子供が欲しくないって、あんたが呪いを掛けた家なのに?」
加減を忘れた久保谷君の言葉は、いつもボディブローだ。
だけど、いい徴候だった。前はすぐに顔色を伺って、僕の言うことを聞いた。もしくは、聞く振りをした。
文句を言ってくれるようになったのは、この子が自分のために、自己主張出来るようになった証だと思う。
肩を竦めて、僕は笑った。
「じゃあ、僕も帰るよ。その間一人になっちゃうから、牧師舎にお邪魔させてもらったら? 神波さんには僕が話をしておいてあげる」
「一人で平気だよ。あんたが来る前は生徒だけだったんだ」
「GWにひとりぼっちじゃ寂しいでしょ」
「寂しいよ。でも仕方ないじゃん」
憂いげに目を伏せて、久保谷君は口をつぐむ。
職員会議の時間が近づいて、教員が移動をはじめていた。気兼ねした久保谷君が、しょんぼりと立ち去ろうとする。
その腕を掴んで、僕は引き留めた。
「じゃあ、僕の家においで」
明るい光を乗せて、久保谷君が瞬きした。
「マッキーの家? いいの?」
「うん。その代わり、神波さんも一緒だ」
「…………」
「車出してくれるように、口説いておいて。宿題だよ」