●図書室のネヴァジスタ/May 5th is●

May 5th is

モドル | ススム

  May 5th is  





夕陽が海に沈む頃、久保谷君から連絡が入った。

今夜は行けそうにない。明日には行くからという話だった。神波さんは遠い目をしていた。なんでここにいるんだろう的に。

神波さんは僕に付き合ってくれた。赤ちゃんを見たり、姉に頼まれたベンチの修理をしたり、混雑してきた駐車場の誘導係りをしたり。よく付き合ってくれたと思う。

僕の家族の前では、神波さんはにこやかだった。僕は嬉しかった。優しい神波さんが、僕の知っている神波さんだったから。

夕食の時間になると、店は混み合ってくる。その前に僕らは部屋に退散した。柔和な会釈を繰り返していた神波さんは、僕の部屋で二人きりになった途端、般若みたいな顔をした。

「君んち、人使い荒すぎだよ!」

怒っていたみたいだ。言ってくれれば良かったのに……。

「神波さんも楽しんでるかと思って……」

「炎天下の駐車場で棒振って、何が楽しいと思うわけ。汗でビールも出ていったよ」

「先にお風呂入ります? パジャマ、僕のジャージでいいですか?」

「このままでいい。あと食べさせ過ぎ。もういいって言うのに、パスタから、ピザから、ロールキャベツから……」

「残してくれて良かったのに」

「ご両親に悪いでしょう」

意外な台詞だった。驚く僕に気づいて、神波さんは眉をしかめる。

「君の親に恨みはない。そこまで非常識な男じゃないよ」

ゆっくりと夕日が沈んで、青みがかった夜が訪れた。開け放した窓から、海の傍で点滅する光が見える。

半月が優しく空に滲んでいた。波の音が聞こえる。

窓の下に神波さんは座っていた。片膝を立てて、煙草をくゆらせている。

青白い風景は物悲しく、彼にふさわしかった。電気を付けるのを僕は忘れた。眩しい白い光の下で、僕らがすることはあまりなかった。

「貴方は悪い人じゃないのに」

「そう思っててよ。都合がいいから」

「神波さんがいなかったら、学校も辞めてたかもしれない」

目を伏せる僕を、神波さんが見ていた。

「貴方には嘘でも、僕は救われたんだ。口先で人を破滅させながら、同じように人を助けてた。救った人の数の方が、神波さんは多いはずだ」

「止めてよ。どこまでお人好しなんだ」

苛立たしげに、彼が煙草の灰を落とす。僕の左腕を見やって、苦く吐き捨てた。

「他人事だと思ってるから、そんなことが言えるんだ。君は知らないから」

「何を?」

「俺がしたことを」

「あの子たちにしたことでしょう?」

「それだけじゃない。悪いけど、幻想だよ。俺は君がどうでも良かった。俺の敵なのか、利用できるのか、関心があったのはそれだけだ。岡崎先生に殺されてくれても良かったんだ」

「だけど……」

「お酒を持ってきなよ、出来るだけ強い奴」

うんざりと髪を掻きあげて、神波さんは僕を睨んだ。

「君を潰して寝る。君と飲んだ日も、泥酔させて聞きだすつもりだった」

「酔っ払わなくても答えたのに。神波さんを信用していたから」

「今は君の口を塞ぎたい。持っておいで、起きていられたら相手をしてあげるよ」

「僕はそんなに弱くないですよ」

「見栄を張るなよ。子供相手の歓迎会で前後不覚になったくせに」

たしかに神波さんの言う通りだった。

僕はお店の倉庫に降りて、ゴールドタイプのテキーラ二瓶をかっぱらった。ショットグラスを二つ用意して、せっかくなのでライムと塩も用意した。一杯目は景気づけに、ショットガンでもいいかもしれない。アルコール度数は下がるけど。

部屋に戻った僕は音楽をかけた。昼間に車の中で聞いたイングリッシュマン・イン・ニューヨークだ。スティングの曲を耳にした日は、どうしたって一日中頭でリピートする。

ショットグラスにテキーラとソーダを半々に注ぐ。「乾杯」と口だけで言って、僕らはショットグラスの底をテーブルに叩きつけた。瞬間、炭酸が混ざり合って泡立つ。泡をこぼす前に僕らは喉に流し込んだ。刺激的な泡が鮮烈に喉を焼いた。

神波さんは顔色を変えずに、熱い息を吐いた。お酒が強い人と飲むのは久しぶりで、僕は内心わくわくしていた。

「僕が知らないことって何ですか」

「教えないよ」

僕はショットグラスにテキーラを注いだ。同時に飲み干して、次の質問に行く。

「どうして、今日は来てくれたんですか」

「君の家のベンチを直すためじゃない?」

テキーラを注ぐ。暗黙のルールのように、飲み干して質問する。

「久保谷君と話がしたかったんでしょう?」

「違う」

注いで、飲み干す。グラスを傾けた時、神波さんが苦言を呈した。

「待って。ペースが早いよ、学生みたいな飲み方しないで」

「なら、神波さんが話を広げて下さい」

グラスをかちあわせて、僕はショットグラスを煽った。眉間に皺を寄せながら、神波さんもテキーラを流し込む。

僕は毎晩、慣性で飲んでいる。寝る前に歯磨きをするみたいに。今夜はいつもと違う高揚があった。際限なく酔っ払える解放感。学生の目を気にすることもない。

大学時代を思い出した。僕の周りには必ず年上がいた。

「彼女いないんですか?」

「いないよ。生涯の妻と思える人に会えなくてね」

不機嫌に言い捨ててから、神波さんは口を開いた。なんとか会話を伸ばそうとしている。

「昔は何人かと付き合った。俺の出生を知ってる人とも、知らない人とも。どちらもだめだったよ。なんか嘘っぽくてさ」

「花ちゃんと付き合えば良かったのに」

神波さんは塩を舐めて、ライムを齧った。僕を睨んで、グラスを構える。

「次は俺の番だ」

「どうぞ」

テキーラを一気に飲み干す。卓上にグラスを置く音がコン、コン、とリズムみたいに響いた。音楽の合の手みたいに。

スティングは一曲目をようやく歌い終えた。そして、またイントロが流れ出す。

リピート設定だ。偉大な歌い手を僕らは酷使している。

「何が目的なの。君は俺をどうしたいわけ」

「何ってないですけど……。久保谷君と仲良くして下さい。あの子は貴方とうまくやりたがってるんだ」

「君が押し付けたいだけでしょう。瞠くんは君に懐いてるよ。まるで問題はないのに、君が一人で怖がってるんだ」

「そんなことないです。久保谷君は貴方の方が……」

「君は子供に責任を持ちたくないんだよ。犯罪者にさせたり、自殺されるのが怖いんだ。違う?」

堪えるようにライムを齧って、僕はテキーラの瓶を持ち上げた。

「次は僕の番です」

「ああ、ほら。都合が悪いと話を逸らす」

てめえだろ。

むっとして、ショットグラスを握る。唇を歪めて、彼は意地悪く笑っていた。

「あの子がかわいいなら、傍におけばいい。君と一緒にいれば、あの裏切り者は勝手に滅んでいく。俺には一つの文句もないね」

「……どうして」

「君は自分を走りまわる鼠だと思ってるみたいだけど、本当は恐ろしい巨大星だよ。凄まじい引力で相手のコントロールを失わせて、墜落させてしまう。だから、君は誰も助けられないんだ」

僕は眉を寄せた。

「あの子は存在が軽いからね。すぐに隕石になるよ。燃え盛りながら君の前に落ちて、地上に着く前に消滅するんだ。君だけが無傷なまま、また別の星を落とすんだろう?」

「牽制のつもりですか」

「…………」

「そんなに久保谷君を取られるのが嫌なんだ」

「馬鹿なことを……」

「言われなくても、近づいたりしないよ」

僕らはテキーラを煽った。

口の中でテキーラとライムの香りが混ざり合う。波音はソーダみたいに、青い部屋と音楽を掻き混ぜた。

アルコールが足りなかった。神波さんを待たずに、がんがん喉に流し込みたい。

「お母さんが死んだのは、自分のせいだと思ってるんですか」

余裕を失くして、僕は気配りを欠いた。

神波さんは無言だった。何も言わずにテキーラをショットグラスに注ぎ、僕の顔にひっかける。

水滴を乗せたレンズに視界が弾けた。

眼鏡を拭く僕に構わず、二つのショットグラスに彼はテキーラを注ぐ。日頃は理性的な彼の瞳に、僅かな酩酊があった。

合図もなく、同時に喉に流し込む。

「生徒に刺された時どんな気持ちだった?」

「しまったって。失敗したって、それだけ」

僕は淡々と告げた。瞬きをして、彼は首を傾げる。

「死ぬのは怖くなかった?」

「死ぬ気はあんまりしなかったです。死んだことないから、どの程度痛いと死ぬのかわからないし」

「へえ……」

彼は襟を緩めて、熱い息を吐いた。だいぶアルコールが回ってるようだった。

内心で腹が立っていたので、僕は手加減をしなかった。ライムに齧り付き、果汁をすすって、ショットグラスに酒を満たす。

グラスに口を付ける寸前、神波さんは初めて躊躇した。潔くテキーラで喉を焼いた僕は、目を眇めて顎をしゃくった。

「飲んで。僕を潰すんじゃなかったんですか」

じろりと僕を睨んで、神波さんはショットグラスを空にした。

首の後ろを揉みながら、胡坐をかいて背筋を伸ばす。やる気の彼の姿勢に、僕はちょっと笑った。

「……何笑ってるんだよ。なんで顔色変わらないの。君だけ水飲んでるんじゃない?」

「マジシャンみたいに入れ替えて?」

「どうでもいいけど……。いいよ、始めて。今何してたところだっけ」

「僕が質問する番。好きな動物は?」

「動物……? コアラとかパンダとか?」

質問を短く切りあげて、僕はテキーラを傾けた。注ごうとする前に、神波さんが手で蓋をして、ソーダ水をグラスに入れる。無味の炭酸水を飲み干して、彼はだらしなく後ろ手をついた。

「乾杯」

彼の手にグラスを握らせて、僕はテキーラを煽る。深呼吸をして、神波さんも後に続いた。恨みがましげに塩を舐める。

「お酒強かったの」

「学生相手に前後不覚になる程度ですよ。はい、次」

「待ってよ……」

「降参ですか? あれだけ格好つけて息巻いたのに?」

「そうじゃない。氷食べたい」

「氷? ミネラルウォーター用意します?」

「違う。氷」

神波さんは和泉君みたいに喋った。片膝を抱えながら、差し出したグラスを揺らす。

「入れて来て」

「1オンスのグラスじゃ一個で一杯になっちゃうよ……。アイスペールに入れてくるから待ってて」

「うん」

「酔ってます?」

「酔ってない」

















灰皿に火の付いた煙草を置きながら、神波さんは新しい煙草を咥えた。相当酔っている。

僕が用意した氷を、彼はそのまま、ガリガリ噛んだ。気持ちはわかる気がした。スピリッツをがぶ飲みしてると、喉が渇いて口が熱くなる。一本冷凍庫に入れて、シャーベット状にしておけば良かった。きっと神波さんは気に入ったと思う。

頭の回転が弱くなった神波さんは、質問を考える時間がどんどん長くなった。僕はスティングと一緒に歌いながら、手酌でテキーラを一人飲んだ。

まだ夜は長い。神波さんに起きていて欲しかった。

長くなった灰が、彼の口元から落ちそうになる。唇から煙草を引き抜いて、僕は彼を伺った。

「思いつきました?」

うっすらと目を開けて、神波さんは僕を見る。彼が睨まないから僕も親切に笑えた。

「このくらいにしておきましょうか。お水持ってきますよ」

「……勝手に何言ってんの」

「テキーラは急にガタっときますよ。もうきてるのかもしれないけど……」

「考えた。君の一番嫌なことって何」

「嫌な質問ばかりしますね」

僕は苦笑した。燃え盛る煙草の火に、彼は指先を伸ばす。

「お互い様だろ」

「火傷するよ。口開けて」

彼の口に煙草を戻して、僕は目を伏せた。

「幽霊棟の子たちが、僕のせいで不幸になることだよ」

煙草の煙が目にしみた。色気のあるサックスが、切ないメロディを奏でる。

聞いているのか、聞いていないのか、神波さんはぼんやり僕を見ていた。

「あの子たちが好いてくれて嬉しい。僕もあの子たちが好きだ。同じ失敗をするのが怖い。……僕はいつだって怖いんだ」

僕は神波さんの言葉を思い出した。燃え尽きる星の話だ。

僕が偉大な人物だとは思わない。カリスマ性のあるヒーローでも、今をときめくスターでもない。就職に有利な特技があるわけでもない。

だけど、ある日突然、僕の前で誰かが怒り出す。壊れたみたいに、怒鳴り声を上げて。震える拳を振り上げて。

大学の恩師は僕に言った。君に依存してしまうからだよ。

君はイネーブラーだ。

――まるで異星人の名前だ。

「神波さんに相談したかった。貴方を尊敬していたし、貴方のような人間になりたかったから。だけど、いじわるばかりを言って、貴方はとりつく島もない」

「知らないよ……」

「僕だって知らないよ。貴方の過去だとか、葛藤だとか、そんなのどうだっていいんだ」

「ど……」

「僕の話を聞いて欲しかったんだ」

神波さんはあきれた顔で、自分の髪をぐしゃぐしゃと掻き混ぜた。月明りでもわかるほど、彼の顔はアルコールで赤くなっていた。

「わがまま……」

「……すいません」

「瞠くんも君みたいだったら楽だったのに……」

「あの子がわがままを言えないのは、神波さんのせいだと思いますよ」

神波さんはライムの皮を投げた。僕はまた眼鏡を拭くはめになった。

久保谷君がだめになっていいはずがない。あの子は幸せになるべきなんだ。方法を知らないあの子に、誰かが教えてあげなきゃ。

僕には神波さん以外に考えられなかった。なのに、この人はいつまで、このていたらくでいるんだろう。

……それは僕も同じか。

ショットグラスにテキーラを注ぐ。そろそろ一瓶空きそうだった。苦しげな神波さんの手に、無理矢理グラスを握らせる。

「次は僕が質問する番」

「……嘘だよ。俺もう飲んだでしょ……」

「飲んでないです。無理なら、限界だって言って下さい。いきがってスイマセンつって」

「むかつく……」

寝転ぼうとする神波さんを、僕は無理矢理支えた。半分傾いた体で、神波さんは熱い息をつく。浅い呼吸を繰り返しながら、彼はグラスを口元に運んだ。

口を付ける寸前、僕はグラスを奪った。

「……何……」

彼の代わりにテキーラを飲み干す。強情な人だ。急性アルコール中毒になられたら困る。
自分のグラスも空けて、僕は彼に尋ねた。

「最後に一つだけ。飲んであげたから、嘘吐かないで答えて」

半ば瞼を閉じたまま、神波さんは夢心地で頷く。

「いいよ。水を頂戴……」

「――貴方はエイリアンですか?」

曲が終わって、数秒の静寂が訪れた。

すぐにイントロが始まる。うつろな目を細めて、神波さんが唇を開きかける。

突如、がくっと仰け反って、神波さんは後ろに倒れ込んだ。

「………!」

慌てて彼の肩を掴んだ。抱き起こしてみると、神波さんはすでに意識を失って、ぐったりとしていた。

ぼりぼりと髪を掻いて、僕はため息をつく。

「……ガクってくるって言ったじゃん……」

酔っ払って昏倒した人は寝ゲロをしやすい。僕は自分の部屋の美観を守るために、神波さんの頬を引っ叩いて、ミネラルウォーターを口に突っ込んだ。

流れる音楽を口ずさみながら。

四角い窓の向こうで、遠く光が点滅している。その夜一晩中、スティングは歌っていた。僕はエイリアン。合法的なエイリアン……。









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