November 3rd is
November 3rd is
幽霊棟に戻ると、春人がソファでごろごろしていた。
気楽そうで羨ましい。
「春人」
「んー。おかえりー」
僕は鞄を放り出して、彼が眺めている雑誌の間に、にゅっと首を差し込んだ。ほっぺたがくっついて春人はちょっと驚く。
「春人、受験勉強してる?」
「そこそこかなあ」
「僕、進路指導室に行ったんだ」
春人は目を丸くして、すみやかに雑誌を閉じた。お腹の上に雑誌を乗せて僕を振り向く。
「なんか言われたの?」
僕は春人の首に腕を回した。首筋に鼻先を埋めながら、今日のいきさつを話す。
春人は瞠と仲がいいから、僕の気持ちをわかってくれると思った。
「瞠が受験のために断髪式をしたら、春人は嫌だよね?」
僕の声はぐずる子供みたいだった。
「そんな瞠、嫌だよね? そんなこと言う先生も」
うんうんと頷いて、真剣に顔を顰める。
そんな春人を期待していたのに、彼は口元をほころばせていた。
「瞠も和泉もかわいいな」
真剣味の足りない返事に、僕は目を細めた。
「春人はのんき」
「瞠は髪切ってもかわいいと思う。一年の頃だって、今ほど長くなかったでしょ」
「だけど、瞠は切りたくないよ。きっと」
「だから断髪式なんじゃない? 和泉を喜ばせる企画にして、楽しいことにすりかえて、ぱっとしたイベントにしたいんだよ」
春人はやわらかな微笑を浮かべた。彼の表情はいつだって、僕らの中で一番大人びていた。
「子供の頃のおもちゃを誰かにプレゼントするみたいにさ。もういらないものだってわかってるけど、黙って捨てるのは寂しいじゃない」
「…………」
きれいな指先が僕の前髪を撫でる。僕は片目を細めて、その行方を追いかけた
「丁寧に切ってあげて。仕上げは瞠が自分できれいにするよ」
「…………。僕はしたくないのに」
「和泉じゃなきゃできないよ。めちゃくちゃで、破天荒で、パーティみたいな出来事には」
穏やかな、春人の声に僕は気づいた。
ああ、きっと、瞠も無敵でいたいんだ。
ダメージを受けないように、精一杯の幸福を集めて、無敵の自分でいたいんだ。
瞠はガードに僕を選んでくれたんだ。
「俺はきっと和泉よりきれいに切れると思う。だけど、しんみりしちゃうと思うな。髪を切ることがじゃなくて、俺たちがバラバラになる準備をすることにさ」
見慣れた校舎を初めて遠く感じた。
チャイムの音に心細くなった。
近い将来、この風景を手放すのだと思った時に。
「春人……」
「何?」
「春人のこと嫌いだったよ」
間近な距離で、春人は目を見開いた。そこには傷心も不愉快さもなくて、純粋な驚きが泡のように弾けていた。
今は彼を嫌った理由も思い出せない。
偽りのない彼の良心を憎んで、憧れていただけかもしれない。
「今は愛してる」
僕は春人を襲ってキスをした。気持ち的には舌を入れてもいい勢いだったけれど、怒られるのが怖くて口の端にした。
こういうところが苦手だったのかも。
僕は瞠のために、断髪式の練習をすることにした。
「煉慈、髪を切ってもいい?」
僕はハサミを片手に煉慈の部屋に乗り込んだ。
煉慈は返事をしなかった。春人の話によると、昨夜徹夜だったらしい煉慈は、寮に帰るなり「寝る」と言って部屋に篭ってしまったらしい。
僕はベッドの煉慈に馬乗りになって、思いつく限りのいたずらをした。だけど、煉慈は目を覚まさない。
「煉慈、起きて。坊主にしちゃうよ」
布団の中で彼は健やかな寝息を立てていた。
煉慈の寝顔はあどけなかった。彼は表情がかわいくないだけで、顔つきだけならとても優しい。
ちょっとした写真加工で、美少年の振りが出来るだけある。
僕は布団の上から寝転んで、ハサミを握り締めたまま、煉慈と添い寝をした。指先で前髪を持ち上げて、彼に似合う位置を探す。
煉慈は晃弘と同じだ。小説家という実績のある人間。彼は髪を切らなくても面接に通るだろう。
僕は不愉快になった。僕の煉慈のいいところを、誰が知ってるっていうんだろう。
つまらない小説なんかより、面白いところを、僕が一番知っているのに。
「煉慈」
僕は耳元に囁いた。低くうめいて彼が肩を竦める。
「花に捨てられた。パパもいなかった。ねえ、煉慈……」
ハサミを握り締めたままの手で、彼の頭を抱いた。
薄闇の中で、凶悪な気分が頭をもたげていく。
何もかもどうにもならなかった頃、ふてくされた気持ちで抱いていた闇。
誰かを巻き添えにして、崩壊することしか術がなかった。
閉ざされたままの瞼が、危うげにひきつる。僕はうずうずと取り返しのつかない過ちを求めてしまう。
何もかもが、おじゃんになるものを。
「僕を一番にしてよ」
闇の中のハサミが鈍く光る。それで何をしようというわけでもないのに、刃の攻撃力だけは良く知っている。
好きな場所で切り取れるんでしょ。
仕方がない。仕方がないとわかってる。それでも、気に食わない。
ここにあるものは、全部、僕が愛したものたちなのに。
どこかの知らない野郎が、採点するなんて言うんだ。
「ずっとこのまま、僕とここにいようよ」
彼の顔にハサミをあてがいながら、僕は彼の悲鳴を待ちかねる。
――瞬間、ハサミを取り上げられた。
「こら」
振り返ると誠二がいた。暗がりの中で僕のハサミを握ってる。
僕は驚きに声を失った。彼が幽霊棟に来るのは珍しかった。しかも、煉慈の部屋になんて。
「どうして……」
刃の方を握り締めて、誠二は肩を竦めた。
「槙原先生に話を聞いてさ」
「弟の無事を確かめに?」
「馬鹿らしい。――君が怖いことを言うからだよ」
ネヴァジスタに行きたいと僕は先生に伝えた。
ぽんぽんとハサミの柄で手のひらを叩きながら、誠二は煉慈の机にもたれた。彼はまるで死んだ人間のように闇に溶けた。
僕らのいる空間に凶器がある。それは怖いことだった。
説教が上手い牧師のくせに、彼は長い間黙り込んだ。僕も黙っていた。
煉慈が一度、歯を軋ませて、寝返りを打った。
「春が待ち遠しいよね」
笑う声で誠二が告げる。
今年の間に、聞き慣れてしまった、いつもの皮肉かと思った。
「僕らがいなくなったら、せいせいする?」
冷たい僕の声に誠二は笑った。わずかに彼の髪が揺れる。
「早く出て行けばいいよ。こんなところにずっといたら、俺みたいになっちゃうからさ」
揺らいだ影の輪郭は、寂しくて優しいものだった。
誠二は机から身を離して、僕に歩み寄った。僕から取り上げたハサミを差し出す。
彼は刃の方じゃなく、柄の方を差し出した。
それは凶器を持つ時に、相手を傷つけないようにするマナーだ。
僕の父親じゃなかった人は、すでに見送る目をしていた。
「あの子を連れて行ってあげて」
……こうして、僕は瞠の髪を切ることを決めた。
盛大な馬鹿騒ぎで、彼を無敵にすると決めた。
それは僕にしか出来ないこと。
願書には書けない僕の特技。
未来の僕はきっと、今日の僕の決断に、拍手をするだろう。
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