November 3rd is
November 3rd is
進路指導室は西日が射して、空気が篭っていた。先生が窓を開けると冷たい秋の風が吹き込んできた。
先生が煎れたお茶なんて何べんも飲んでいるのに、進路指導室のお茶は異質な感じがした。まあるい湯飲みがうさんくさい。
お説教をする空気に飲まれてしまう。テーブルを挟んでフェイストゥフェイスのこの距離が嫌だ。
あなたと僕はとても近しい存在なのに。
「どうして、いきなり、あんなことを言い出したの」
そっぽを向いたままの僕に対して、先生は身を乗り出した。注意をひくようにとんとんと卓上を叩く。
「先生こそ。なんで髪切れって言ったの」
「久保谷君の?」
「そうだよ」
「見た目に清潔感がある方が有利だからだよ」
「今の瞠は不潔?」
「そんなこと言ってないじゃない」
困惑した先生の声に、僕も弱って、両腕を広げて訴えた。
「もっと、弾けたこと言ってよ」
「弾けたこと……?」
「普通じゃないことを。先生はいつも普通じゃなかった」
「えっ、普通だったでしょ!?」
「聞いたことがあるような台詞を言わないで。こんな距離は止めて。取調べみたいで嫌だ」
眉を下げて、僕は不満を告げた。
先生は軽く思案した後、パイプ椅子をたたんで移動した。たがたと椅子をセットしなおして、僕の隣で首を傾げる。
「こんな感じ?」
僕は黙り込んだ。先生の従順さや素直さが、嬉しくて、不満だった。ほだされて反論を封じてしまうから。
僕の手のひらを撫でて、先生は微笑みかける。
「髪の毛を切ったって、久保谷君は変わらないよ。原稿用紙を止めてパソコンで小説を書いても、辻村君は変わらないでしょう」
「……それとこれとは違うよ」
「久保谷君がいやだって言ってた?」
「言ってないけど……」
「いやなら切ることないけど。でも、代わりに強みが必要だ。髪を切るよりもずっと大変だと思ったから、僕はそう提案したんだけど」
「脳みそが晃弘になるとか?」
「茅君の脳みそには僕だってなりたいよ。後はアピールしやすい実績を作るとかね。これはもう三年生だから難しいけど」
西日の中で先生が書類をめくる。その横顔はとても優しいのに、僕は心臓をきりきりさせた。
進学についての説明会なんかで、僕も何度か書かされた。自己PR。高校生活でして来たこと。
そこではツバメの巣を作ったことなんて、誰も褒めてくれない。
三年生だから難しいなんて言わないで欲しい。
一年や二年の僕らが幽霊みたい。
まるで、僕らが何もしてこなかったみたいじゃないか。
「瞠は……」
ぎゅっと指を握り締めて、僕は表情を弱らせた。
「瞠は僕たちを友達にしてくれたよ。瞠がいなかったら、僕たちはバラバラだった」
先生が瞬きした。
僕の声は震えそうだった。
「それだって、瞠の実績でしょう?」
「もちろん」
先生は頬をゆるめて、僕の肩を抱いた。僕らを認めてくれる笑顔だった。
なんだか無性に泣けてきた。賢太郎の言うとおり、ナーバスになってるのかも。
「あの子がここにいたことも、君があの子を思いやることも、かけがえのない実績だよ。100点満点のテストよりすごい物」
「だけど、髪を切った方がいいんでしょ」
「初めて会う人にはわからないからね」
ぽんぽんと先生は僕の肩を叩いた。世の中の面接官が全員先生だったらいいのに。
優しい瞳が僕を覗き込んで笑っている。
「和泉君、僕らはね、一番楽な方法を教えるだけ。みんなの将来のために、一番手っ取り早くてらくちんな方法だ。だけど、それは絶対じゃないんだよ」
「…………」
「髪を切りたくなかったら切らなくてもいいし、受験したくなかったらしなくてもいい。頑張りたい時に、頑張れる部分で、頑張ればいいの。そのタイミングは人それぞれだから、合わせなくたっていいんだよ」
先生の指は優しく僕の肩を撫でた。布団の中で絵本を読んでくれた花のように。
僕は受験に失敗した彼の生徒を思い出した。
「そのかわり、一度も頑張らないで、なりたいものになれるほど、世の中は甘くないです」
「……そういう話、好きじゃない」
「どうして。和泉君は自分が好きでしょう? こう考えて。未来の君にご褒美をあげるためだって」
「ご褒美?」
「未来の君のためにしたいことをして。だけど、未来の君が喜ばないことは、誰がどんなに薦めてもしなくたっていいんだ」
先生は親しげに微笑んだ。
素晴らしいアイデアを聞いたように、僕の気持ちは軽くなる。だけど、一つだけ疑問が生まれた。
「先生。先生は27歳の時、結婚してると思わなかった?」
「思ってたよ」
「なんで、今、独身なの?」
「…………」
「なんで、プロポーズに振られて、よりを戻すチャンスを失って、他の男にゆっこ盗られてるの」
「…………」
「未来の自分にご褒美あげなかったの?」
先生は進路相談室の机に突っ伏した。
ゆっこに彼氏が出来たことに対して、先生はかなりダメージを受けていた。その事実を知った日は、一日中、食堂のソファで死んだまぐろになっていた。
こんな風に成功しない事例もある。危なくありがたそうな話に引っかかるところだった。
僕は黙って部屋を出た。見渡す校舎の風景に、ふいに胸が苦しくなった。
春が来たら、僕はここにいない。
生徒会室を覗くと、珍しく晃弘と斉木が仲良くしていた。出来上がったばかりの創立祭のパンフレットを二人で読んでいる。
「楽しみやなあ。当日どこ回ろ」
「創立祭を見て回れるなんて、学校見学以来だよ」
「斉木先輩、ひやかしてる暇があったら手伝ってくださいよ!」
「絶対嫌やー」
「会長、ちょっとだけ確認して頂きたいものが……」
「元会長」
「あ、誤植や。時間の誤植はあかんなあ、修正や」
「ええええ!」
「五千部の誤植修正か。僕の時代に起きなくて良かった」
「会長、斉木先輩、手伝っ……」
「あはは。無理」
「これも人生勉強やで」
すすり泣きが聞こえる生徒会室に僕は足を踏み入れた。斉木が僕を振り返る。
僕は晃弘の腕を引いて爪先立った。
「晃弘」
「何?」
「晃弘は実績のアピールのために生徒会をやってたの?」
僕の質問に生徒会の面々も興味を示した。さりげなく耳を澄ましている。
晃弘は極上の笑顔で微笑んだ。
「そうだよ」
「そりゃないですよ、会長! もっとこう高校生活を有意義にするためとか!」
「一つの目標に向かってチームワークを感じるためとか!」
「ノーメリットで面倒な労働なんてしないよ」
さわやかな晃弘の笑顔に、彼の後輩たちから半べその非難が上がる。もっともらしく頷いて、斉木が目を閉じた。
「わかったか? これがおまえらの上におった男や」
「そう言われても……。この学園に入って生徒会長をやるまでが、僕の家のタスクだったんだよ」
「ハードル高い……」
「そりゃあ気も狂うだろう」
「晃弘、自虐ギャグは止めなよ」
「斉木先輩もおうちのタスクですか……?」
「俺は面白そうやったからや。中学の時もやっとったしな」
ふいに、晃弘が興味を示して斉木を見やった。
「そう言えば、君の両親は?」
眉を上げて、斉木が目を細める。
「二年も一緒に役員をやっとって、ようやく個人情報を聞いたな」
「ああ」
「医者や」
「へえ」
「おまえが政治汚職で雲隠れする時は、高い入院費で匿ったってもええで」
「その前に心療内科医になって僕を治してくれないか」
「おまえの症状だけは見たないわ」
顔を顰める斉木に僕は話しかけた。僕の夢も医療関係だ。
「斉木、僕も医者になりたい」
「へえ、そら……」
「動物のお医者さん」
「可憐やね……」
口元を覆って斉木は感動している。
「だけど、勉強が出来ないんだ」
「そうゆうことやったら面倒見たるで。成績言うてみ」
誠実な斉木の表情に、僕は正直に成績を伝えた。一瞬固まった後、彼はいかめしい顔で頷いた。
「死ぬほど勉強すればなんとかなるやろ」
「ほんと?」
「ああ。クリスマスも正月も捨てて頑張りや」
そういうのは得意じゃない。僕はほとほと困り果てた。
なんでだろう。僕の夢のはずなのに。
瞠の髪を切ったりするのも、クリスマスをお預けにするのも、僕じゃないことみたいで嫌なんだ。
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