和泉は何を考えているんだろう。
「ほら、おまえも手伝えよ」
「うん」
返事をしながら、和泉は壁のパネルを見つめていた。少女にも見える裸の和泉花を。
褪せた光の下で動かない和泉は、琥珀の中の虫のように孤独だった。彼の視線はいつも、白々と温度が低い。凍傷した雪原のように。
「私の写真に見惚れてるの」
数年後のパネルの女が、和泉を冷やかした。頷くように和泉はパネルを指さす。
「この頃の花が一番きれいだった。今の花はいまいち」
美しい女が眉をしかめた。それは俺にもわかる負け惜しみだった。
和泉は不遜に冷笑する。
あきれるほど、へそ曲がりな台詞で。
「眞に廃品回収されて良かったね、花」
小柄で見境のない和泉。大柄で分別のある俺。
正反対なものが多い俺たちにも、僅かに共通点がある。
右利きなこと。友人が少ないこと。目玉焼きには醤油をかけること。
――とある人物に復讐されたこと。
The Unbirthday Party (with I)
「お皿、どれ使っていいの?」
「煉慈君。お酢の物、お味見てくれる?」
蜜のような影をしたたらせ、いくつもの手が動いていた。
刃物を握り、野菜を洗い、指揮者のように箸を操る。黄金色の月を焦がした光に愛撫され、台所を行き交う彼らは、停泊船のように揺らめいた。
料理を教えてくれと請われ、俺は退廃的な家を訪問した。
紆余曲折の末、まともな段取りも踏めないまま晩餐の支度をしている。頼りになるのは俺とクックパッドだけだ。
「おい、和泉はどこだ」
「放っておけばいいよ、あんな奴」
和泉の姿を見つける前に、花が俺に腕を絡めた。肘に柔らかい感触がして、俺は冷や汗をかく。
突き飛ばすわけにもいかないまま、俺は背中で寛子を意識した。
「は、離せよ。飯が作れねえだろ」
「咲なんて、かわいくない。煉慈はどうよ、私のこと」
「俺がどうとか別に……」
白い手に頬を包み込まれ、宝石のような瞳に覗かれた。辛苦に肘を突きながら、気圧されて返答する。
「一般的に美人だろ。わ……っ」
「かわいい、煉慈。煉慈いいね。煉慈のお嫁さんにしてよ」
キスの雨を浴びせられ、俺は仮死状態のトカゲのようになった。心臓だけが体に悪いほど跳ねている。
華奢な花の肩越しに、和泉と目があった。
冷酷な独裁者のようだった。
「違……!」
「あー、煉慈はいい子だなー」
俺の言い訳より早く、花がふふんと鼻で笑う。和泉を一瞥して、見せつけるように、耳たぶを甘噛みした。
腰から力が抜けた瞬間、皿の割れる音が響いた。寛子が青ざめてしゃがみこむ。
「ごめんなさい。手が滑って……」
「いいよ。怪我はなかったか?」
屈んで破片を拾いながら、俺は寛子の顔をちらりと伺った。花の態度に妬いたのか? 妬いてるのか?
つまり、それってことは……。
「馬鹿じゃないの」
後頭部に重みを感じた途端、冷酷な独裁者の声が降り注いだ。
「脈なんてあるわけないじゃない」
「……人の頭を足で踏むな……」
和泉の足首を掴んで、夜空にぶん投げたい衝動を、俺は必死に堪えた。
ふん、と頭から足をどかして、和泉は去っていく。石野の帰りが近づくにつれて、彼は不機嫌になっていた。それがわかるから、俺も大目に見てやる。
なにしろ、あいつに頼られて、来てやってるのだ。
「咲のばかちん。写真も煉慈に渡しとこ」
「写真?」
「日焼けしたネガの修理頼んだでしょ。犬みたいな名前の人づてに、眞のところに来たんだよ」
「話が見えないな。犬みたいな名前の奴は想像が付くが」
「なんだっけ。ちょっと待ってて」
花は台所を出て、通常は寝室であるはずの収納部屋まで駆けていった。
俺は料理をしながら、和泉の様子を覗いた。巨大なベッドの上で、銀のボールを抱えて何かを泡立ててる。
「何作ってるんだ?」
「別に」
とりつく島もない。
アルミホイルを投げつけそうになったが、頼られていることを思い出した。俺が大人になってやらなきゃ。
「そんな所にいないでこっち来いよ。台所でやった方が汚れないだろ」
「煉慈みたいに鼻伸ばしたくないから」
漬け物瓶に詰め込んでたくわんにしてやろうか。
「これこれ」
厚みのある封筒を持って、花が戻ってきた。封筒の中身はネガフィルムと写真の束だった。
「これに写ってる子から頼まれた。一回写真捨てた後、焼き増ししようとしたら、ネガが日焼けしてたんだって」
「へえ……」
適当に相槌を打ちながら、俺は写真を覗いた。幼い依頼人の顔が判別付いたと同時に、俺はエピソードに深く納得した。
一度捨てたことも、今になって、焼き回ししようと思ったことも。
「瞠だ」
いつのまにかカウンターに現れた和泉が、文句を言うように言った。
写真に映ってたのは、幼い頃の久保谷だった。そのうちの何枚かには、傍らに笑う誠二がいる。
「神波君だー。格好いいな、告ったら付き合ったのにな」
頬を綻ばせる花と対照的に、和泉からはブリザードの冷気がした。ホワイトアウト寸前の猛吹雪だ。
「……何これ。どうやって、眞に頼んだの」
「賢太郎づてらしいぜ」
「どうして、僕に頼まないの」
憮然と憤る和泉に、あきれて俺は閉口した。
「おまえはいつも、ひやかすじゃねえか」
和泉は眉をつり上げた。大きな瞳が燃えるようだった。
「それが嫌だったんだろ」
「馬鹿みたい」
和泉は乱暴に写真の束をカウンターに叩きつけた。
大人げない態度だったが、和泉が怒る理由もわかる気がした。
「僕を通さないで、勝手に」
「彼氏気取りだな」
「こそこそして。むかつく。馬鹿。瞠なんか大嫌い」
「日頃の行いが悪いんだろ」
「瞠は僕が嫌いなんだ。僕より、嫌ってた賢太郎に頼んだ。瞠なんか死んじゃえ」
おいおい、そりゃないだろ。
和泉は陰口を叩かない。今言った言葉を、そっくりそのまま、久保谷に伝えるだろう。
和泉はただ、混ぜて欲しいだけだ。こいつは久保谷や誠二が好きなんだ。久保谷もわかってるだろうが、死ねばいいなんて言われたら、よけいに和泉を回避しようとするだろう。
あいつにはただでさえ、俺たちに後ろめたさがあるから。誠二を慕ったり、誠二と幸せになることに。
和泉と久保谷のために、俺はアドバイスをした。
「やきもちやくなよ」
和泉は俺を睨んだ。
写真の束を掴んで、コンロの前に向かう。乱暴に鍋をどかして、燃える青い火に、和泉は写真をくべようとした。
俺たちは仰天して、和泉を押しとどめた。
「何やってるんだよ!」
「火事になっちゃうよ、和泉君!」
「僕に渡ったら、何かされると思ったんでしょ」
ひび割れた声は、慟哭より胸を突いた。
「だから、何かしてやるんだ」
「そうじゃないって! よせよ、大事なものなんだろ」
「だから何」
「何って……」
「ずるいじゃない、二人だけにあって! 僕には何もないのに!」
悲鳴のような和泉の声に、俺は目を見開いた。
和泉の嘆きに共感する自分がいた。俺には蘇らせる写真もない。
親父のことも、叔父貴のことも、同じように好きだとはいえない。
「ーーただいま帰りました」
涼しい声がして、玄関の扉が開いた。部屋の主が帰ってきたのだ。
「おや、賑やかですね」
間接照明しかない部屋の、壁にヌード写真が飾ってある部屋の、リビングにキングサイズのベッドがある部屋の主は、にこやかに訪問者を歓迎した。
気持ち悪い長髪と、ひょろりとした長身の青年だ。長い手足や、飄々とした雰囲気が、水蜘蛛を思わせる。
石野の背後から、険のある青年が顔を覗かせた。
「おまえたちも来てたのか」
「賢太郎……」
石野の影から出てきたのは賢太郎だった。和泉は俺を突き飛ばして、賢太郎に走りよった。焼失を免れた写真は、台所の床にばらまかれた。
しがみつく和泉に驚きながら、賢太郎が苦笑する。
「よう、咲。たいした歓迎ぶりだな」
和泉は何も言わなかった。彼が泣いているように思えて、俺は胸が痛んだ。
エプロンを外した寛子が、慌ててお辞儀をする。
「このたびはお招きに預かりまして、誠にありがとうございます。主人の代わりに、お邪魔させていただきました」
「はあ」
石野は曖昧な返事をした。前髪を整えながら、しずしずと鳥沢唯が姿を現す。
「こんばんは。鳥沢唯、26歳です」
「はあ。石野です、どうも」
鳥沢唯は石野と握手をした。背伸びをして、彼の背後を伺っている。石野と賢太郎の背後に、色男が行列をなしていると思っているのだろう。
「どんなメンツなんだ?」
当然の疑問を口にして、賢太郎が煙草をくわえる。和泉がしがみついたままの彼を、石野はベッドの向こうに促した。
「津久居君、ベランダへ」
賢太郎は眉をしかめた。
「今さら何を言ってる。灰皿を用意させただろ」
「以前までは構わなかったのですが、花が妊娠してるかもしれないので」
家中の空気が凍り付いた。
賢太郎に顔を押しつけた和泉は、ぴくりとも動かない。
息を飲む人々に気づかず、賢太郎はストレートに尋ねた。
「子作りしてるのか」
石野も真っ向から打ち返す。
「避妊はしていないという意味で」
何ていう会話だろう。
忌々しげに舌打ちして、賢太郎はベランダに向かおうとした。半ばで足を止めて、室内を見渡す。
「どれがおまえの女だ」
「彼女です」
石野は花を紹介した。賢太郎はじっと花を見て、火のない煙草を指先で回す。
「美人だな。俺に乗り換えろよ」
「いいよ」
賢太郎は冗談だと思ったようだった。聞き流して自己紹介をする。
「津久居だ。石野と咲の面倒を見てやってる」
「ふうん」
「…………」
「私の面倒も見るの?」
賢太郎は眉を寄せて石野を見やった。石野は黙って微笑んでいた。
賢太郎は和泉の頭を撫でて、ベランダへと向かった。肩を落とした和泉が、それでも言いつけるように壁のパネルを指さす。
「何やってんだよ、おまえ!」
石野に向けた賢太郎の怒鳴り声を背中に、俺たちは食事の支度に取りかかった。
床に膝を突いて、寛子が写真を拾い集める。花は石野にしなだれて笑っていた。煮物を皿によそいながら、鳥沢唯が俺を肘でつつく。
「あのさ、辻村君。聞きたいことがあるんだけど」
写真を視界の端に止めて、俺は憂鬱に目を伏せた。
「余計なことに首を突っ込むなよ。色々複雑なんだ。五人がかりで人物相関図を作っても五時間かかったくらい……」
「和泉君のことじゃなくてさ」
「ないのかよ」
「あのおかっぱの人は、花さんの旦那なの?」
「ああ。結婚前だけど……」
「あと、寛子ちゃん、主人がどうのって言ってなかった?」
「あいつは俺の義理のおふくろなんだよ」
「えっ」
鳥沢唯は驚愕した。
「独り身は私だけってこと? どういう合コンなの? 津久居賢太郎をピンでゴリ押しされてしまうの?」
和泉が蒔いた混乱の芽が、よりによって俺の前で芽吹き始めた。
今事実を話して、鳥沢唯が激怒したとする。目の前にいるのは、元凶の和泉じゃなくて俺だ。尻拭いはあいつがするべきだ。
「詳しいことは和泉に聞けよ」
「詳しいことって?」
「詳しいことって言うか、おまえには槙原がいるだろ」
「いないよ」
きっぱりとした発言に、少なからずショックを受けた。寛子もそんな風に誰かに話してるんだろうか。
自分のことのように思えて、俺は槙原を擁護していた。
「あいつはおまえが好きだぞ」
「知ってるよ。だけどね、渉君は私が一番好きでも、私が悲しむことを平気でするの」
したたかな口調は、女独特のものだ。
「そういう人だから、ダメになったの」
長い旅の果てに手に入れたものを捨て、家路に帰ると決意した旅人の頑なさがあった。
叶わなかった夢、届かない声――報われない思いたちは、鳥沢唯ような横顔をしているのだろう。
花のパネルを眺めた和泉や、寛子の顔を見れない俺と同じ顔かもしれない。あるいは写真の中の彼らの。
懐かしさでもなく、後悔でもなく、ただ手が届かずに、時の河に流れてしまったのだ。
鍋から視線を離して、鳥沢唯は口端をあげた。
「気をつけなさいよ、学生さん。プレゼントや花を積まれなくても、押さえるところだけ押さえてれば、女は何でも許すのよ」
難しい話だ。
「逆にそこを外したら、何を積まれても心は動かないの」
「興味深いお話ですね」
ひょろっとした長身が台所に現れて、俺たちはひるんだ。長い指先を洗いながら、石野が微笑む。
「お手伝いしますよ。私に気を使って菜食料理にしてくださったんですって?」
俺は警戒しながら、しげしげと男を見上げた。
髪を結って台所に立つことだけは評価してやるが、甘い言葉や柔和な雰囲気には騙されない。こいつが嫌味で性格の悪い狡猾な男だと言うことは良く知っている。
「ああ、仕方なくな」
ぶっきらぼうに俺は言った。機嫌を損ねることなく、石野は微笑する。
「助かります。新しいメニューを知れて良かった。どれも美味しそうですね」
石野に好感を抱いている自分に俺ははっとした。騙されるものか。
石野は不思議な男だった。退廃した家に住みながら、彼自身は清潔感さえした。サディストの変態であることは間違いないのに、物腰は紳士的でさえある。
和泉の話では、女にモテると言うことだった。にやついた長髪の男が、何故女受けするんだろう。何故彼の前で服を脱ぐんだろう。決して目が眩むような美男子ではないのに。
作家としての興味が湧いた。
「どうやって、人の服を脱がすんだ?」
石野ではなく、鳥沢唯が表情を変えた。眉を顰めながら「男って……」と首を振って去っていく。
石野は楽しげに笑った。彼の瞳は色素が薄く、レンズ玉を嵌めたアンドロイドのようだった。
「貴方はどうしたら、裸になってくれますか」
きわどい質問に俺は身構えた。それと同じですよ、呟きながら、石野は皿に料理を盛り付ける。
煮物と蒸し物以外の料理が完成した。頃合い良く、ベランダから賢太郎と和泉が戻って来る。
「もうご飯?」
二人で何を話したのか、和泉の機嫌は元に戻っていた。銀色のボールを冷蔵庫にしまいながら、俺に話しかける。
「ああ。何を作ってたんだ?」
「デザート」
今度は答えた。
「どんな?」
「秘密」
得意げな和泉に、俺は肩を竦めた。にわか雨の終わりに傘をたたむように。