August 18th is
August 18th is
猛暑だった。
登り坂に息を切らしながら、俺は額の汗を拭った。日頃の運動不足がたたって、山登りはきつかった。
前を歩く茅が、平然と振り返る。
「大丈夫か」
「ペース落とせよ」
茅は素直に頷いた。彼の歩く速さについて行こうとして、無理をしていた俺は、かなり疲労していた。
このクソ暑い夏の日に、外に出たのは、ある意味自虐だった。図書室に行くのも癪だし、買い物に行くのも癪だ。誕生日に実家に帰るのも、わざとらしすぎる。
当てもなく、山道を歩き、陰の道を選んでいくうちに、登山道に迷い込んでいた。
なんだって、誕生日に、山登りなんかしなきゃいけないんだろう。
茅は目的地があると思ったらしく、いつの間にか、俺を追いぬいて歩いていた。数種類の山菜が書かれた看板を見て、涼しげに俺を振り返る。
「山菜を取りに来たのか」
「そうだよ」
投げやりに答えた。
「蝉でも蛇でも何でもいいよ」
「山菜コースはこういって、こうだって」
山肌を眺めながら、茅が指を一回転させる。どうだっていい。俺は青筋を浮かべた。俺が怒っていることに、どうして、こいつは気がつかないんだ。
「……今日、何の日か知ってんのか」
「知ってるよ」
「…………」
俺はさらに不機嫌になった。忘れられていてもむかつくが、わかっていて何も言われないのは、なおさら寂しかった。
「なんか、おまえら、怒ってんのかよ」
びっくりした顔をして茅は振り返った。首筋の汗を拭って、息切れしている俺に手を伸ばす。
「怒ってないよ。次の休憩所で休もうか」
「いいよ、別に……」
茅の腕を掴んで、俺は大きな段差を乗り越えた。汗だくで、喉はカラカラで、最悪だった。
「……何か喋れよ」
「何かって?」
「黙々と歩いてもつまらないだろ。話せよ。だいたい、おまえ、前の方が愛想があったぞ」
幽霊棟の外では、茅はにこやかで親切な模範生だ。第三者がいるとてきぱきするくせに、寮ではマイペースを決め込んでいる。
「最近、手を抜いてるんだろ」
「そうかもしれないな……」
うろたえたように、茅は口元を覆った。手抜きの優等生めと俺は苦笑する。
茅は俺に質問をした。どうやってサインを考えたのかという話と、料理は楽しいのかとか、そういう話。結局、俺が喋るはめになって、喉がからからになった。
山道は次第に細く、険しくなっていく。木陰は暗く、迷宮の入り口のようだった。
そのうちに渓流の音が聞こえ、俺たちは吊り橋に出くわした。丈夫そうだが、古い橋だ。
足元を見下ろして、何故か、背筋が寒くなった。
「ここを渡るみたいだ。ああいいって、ぐるっと、こうかな」
茅の声が遠く聞こえる。
あれ?――と思いながら、俺は足が竦むのを感じていた。絶叫ものは好きじゃなかったが、高所恐怖症ではなかったはずだ。飛行機だって乗れる。
茅が歩き出した。何でもない顔をして、俺も後をついていく。足を踏み出すと、ぐらん、と橋が揺れた。ぎゅうっと胃が凍りつく。
(あれ?)
「辻村?」
手すりにしがみつく俺を、茅が不思議そうに振り返った。怒った顔をして、俺はあいつを睨みつける。
「早く行けよ。おまえが近いと揺れるんだ。ヘタクソ」
茅は目を丸くして、感心したように足元を見やった。吊り橋の渡り方にも上手下手がありますか、という感じに。
とんとんと茅は先を進んでいく。その度につり橋は揺れて、俺は目で射殺しかけた。
ゆっくりと、すり足で前に進み、半ばほどまで来た。その頃にはもう、前にも後ろにも進めなくなっていた。
「……っ……」
血の気が引いて、冷や汗が吹き出す。熱中症を疑うには、渓谷は涼しすぎた。がたがたと膝が震えて、力が入らない。
手すりを両手で握りしめて、俺は座り込んでいた。
目の前が真っ暗になる。水底のような轟音が聞こえる。壊れたラジオのような砂嵐。
向こう岸まで渡った茅が、早足に戻って来た。とんとんとんと橋が激しく揺れて、俺は殺気立つ。自分の情けなさを棚に上げ、非常識な人間に憤るように、茅を睨み据えた。
「何か落としたのか?」
間抜けな質問をして、茅は俺の足元を覗きこんだ。俺は別のことを考えて総毛立っていた。男二人が近い場所にいて、橋が落ちたりしないだろうか。
「川に落としたなら、さすがに取れないと思うけど」
「……向こうに行ってろ」
早口に俺は伝えた。
「橋が落ちる」
さらに怪訝な顔をして、あろうことか、茅はその場でどんどんと足を鳴らした。
ぐらんぐらんと橋が揺れる。俺は激怒した。ここが地上だったら、奴を殴りつけていた。
「……止せ!」
「丈夫そうだけど」
「いいから行け、早く行けよ!」
「こんな場所で休んだら危なくないか。万が一、落ち……」
「うるせえ! わざとかテメエ……ッ」
茅の言葉に下を見てしまう。
すっと気が遠くなるような恐怖を感じた。今にも足元がなくなりそうで、必死に手すりにしがみつく。笑えるくらい、指先が震えていた。
森林の影が押し寄せたように、ぐっと視界が狭くなる。渓流の音に、呼吸を喘がせた。
茅の声が、間近に聞こえた。
「怖いのか?」
羞恥と屈辱に顔を顰め、俺は何か怒鳴った。何と言ったかは覚えていない。暗闇はどんどん迫り、動悸が激しくなる。
茅は俺の指を、手すりから剥がそうとした。殺される。瞬間、恐怖した。こいつは正気じゃない。
「止めろ、止め……」
俺は必死に逆らったが、力負けした。ぐいっと腕を振り回されて、声にならない悲鳴を上げる。せめてもの抵抗で、茅の服にしがみついた。
「………ッ」
「痛い、痛い。服が破け……。破けたじゃないか!」
「止めろ! 人殺し……!」
「失礼だな! 立って、立てないのか」
あ。気のせいだった。殺意はなかった。安心した途端、俺はぐったりと、半ば投げやりに目を閉じた。いっそ気を失いたかった。
「重い……。肩に腕を回して。参ったな、本当に立てないのか?」
「……も、もう帰る」
「え? 帰るのか? ここまで来たのに」
俺は首を振った。どっちなんだと、茅が困惑する。
俺の背中を支えて、茅も傍らにしゃがみこんだ。俺たち二人の体重を計算して、俺は恐怖におののく。茅はのんきにペットボトルを取り出して、喉をうるおしていた。
「渡る前に言ってくれれば良かったのに。進むにしても、戻るにしても、このままじゃどうしようもない。背負うから、こう、腕をかけて……」
「は、橋が落ちる。……体重が寄ったら」
「…………。今落ちてないだろう?」
「とにかく、だめだ。一人にしてくれ。おまえがいると揺れる」
「僕一人で行ってこようか? ここで待っている?」
「こんな所に置き去りにするなよ……!」
「どうしたらいいんだ」
「向こう……、向こう岸で待ってろ」
茅は頷いて立ち上がった。遠ざかる背中を見ているうちに、心細さに恐慌しかける。
「……茅! 茅! 戻って来い!」
「…………」
迷惑そうに、茅は戻って来た。
俺の前に膝をついて、ゆっくりと肩をさする。体温が伝わって、俺は震える息を吐き出した。
昔にもこんなことがあった。カブトムシを取ろうとして、高い木に登りすぎて、降りられなくなったのだ。当時、すでにいい大人だった叔父貴が、木に登って降ろしてくれた。
地上に降りた俺が泣き出した後、ひどく苦しげに叔父貴は言った。
――高い所が怖いのか。
成長してからは、それほどでもなかった。屋上だって平気だし、鉄塔も登れる。だから、この吊り橋も渡れる気がした。
途方に暮れた茅は、携帯を取り出していた。誰かに相談するつもりだったのだろう。レスキュー隊を呼んでくれるのかもしれない。だが、携帯は圏外だった。
俺の両腕を掴んで、茅は俺を説得した。
「辻村。うまく言えないけど、橋は噛まないし、襲っても来ないだろう」
何も考えずに、俺は必死に頷いた。禅僧のように悟りきった眼差しで、茅はゆるやかに首を振る。
「橋が落ちるとしたら、それは運だ。僕らにはどうにもできない」
無常感で説得しようとしてやがる。
「おぶっていくから、暴れないで欲しい。いいね」
「……自分で歩く」
長い息を吐き出して、俺はようやくそう言った。この状況で足が浮く方が恐ろしい。
茅の肩に腕を回して、腰を支えあげられる。笑えるくらい足に力が入らなった。下り坂の道で自転車のペダルをこいでいる感じ。
代わりに、上半身はりきんでいた。茅の襟元と手首を握り締めて、ずるずると引き摺られていく。心配そうに俺を見やって、茅が静かに呟いた。
「かわいそうに……」
冷や汗に震えながら、俺は目を伏せた。
俺は子供の頃、車ごと川に落ちて、記憶を失くしたことがある。その時に、母親を亡くした。
事故のことを覚えてはいなかったが、潜在意識に恐怖が棲みついているのかもしれない。
30メートルほどの橋を、30分かけて俺たちは渡った。陸地に辿り着いた時、俺の精神と茅の衣服はボロボロになっていた。
仰向けに寝転がって、俺は腕で瞼を覆った。
呼吸を整えて、震えが止まった後、茅に告げる。
「……誰にも言うなよ」
「誕生日だからね」
手首をさすりながら、茅は頷いた。
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