January 29th is
【1月29日 19時】
迷惑メールで、自分の誕生日を知った。
<あ あ様。お誕生日おめでとうございます!>
<一週間以内の御来店で、カルビ一皿無料サービスさせていただきます。ぜひ、この機会に……>
携帯画面を覗きながら、俺は顔をしかめた。
シケている、と思った。
実際シケていた。帰りを待つ女もいないし、友人との約束もない。
他人に誕生日を教える癖もないから、祝いのメールも焼き肉屋だけだ。
たしかこれも、誕生日前後に来店して、クーポン目的で登録して以来、一度も行っていない店だった。
そんな店からメールが来るまで、一切忘れていたとは。
(今朝はポストも覗き損ねたしな……)
勤労精神は見事に失われ、俺は立ち上がった。
パソコンの電源を落として、机上を簡単に整理する。30秒後には上着を着ていた。
たまには早く帰ってもいいだろう。
忙殺されている理由を考えると、机をひっくり返したい衝動に襲われる日々だった。
自業自得の部分はあるとしても。
慰謝料の計算を始める前に、このあたりで息を抜いて、健全な思考を保つべきだ。
しかし――と首を捻る。
(最近、誕生祝いをされた気がするんだよな)
後輩の女のデスクに向かって、机上を指で叩いた。
はっとモニタから目を離して、彼女が振り返る。
「終わりそうか」
「あ、はい。もうすぐ上がれます」
「飲みに行こうぜ」
「えっ」
「今日、誕生日なんだ。せめて女と飯が食いたい」
言葉の通り、下心はなかった。社内恋愛は面倒だ。
「祝ってくれよ」
彼女は露骨に嫌な顔をした。
「嫌ですよ……」
「どうして」
「津久居さんと二人で飲みに行ったら、好きになっちゃいますもん」
眉を上げて、彼女の口上に感心した。
「おまえ、上手いな」
「何がですか。ああ、汗かいた……」
彼女は引き出しを開けて、何かを手渡した。
「お誕生日おめでとうございます。これで勘弁してください」
カルシウムバーだった。
「カルシウムを摂るとイライラしないんですよ」
「何が言いたい」
「素敵なお誕生日を過ごして下さい」
すました後輩の顔に、俺は肩を竦めて、カルシウムバーを齧った。
片手を上げて、歩き出す。
「ありがとう」
「いいえ、お疲れさまです」
IDカードを翳して、オフィスのドアを開ける。
すれ違いに訪れたのは、親交のあるカメラマンだった。
顔を見るなり、石野は目を丸くする。
「何食べてるんです?」
「カルシウムバー」
「いいことです。カルシウムを摂るとイライラしないんですよ」
機材の入った重たい鞄を下ろして石野は微笑む。
職場と取引のある、このカメラマンは、職場の誰よりも俺と親しかった。
石野が言うところには「貴方と共同作業をしたら、貴方と親しくなるのは難しいですよ」ということらしい。
いつまでも敬語で喋ったり、常時狐顔で笑っていたり、どこまでもうさんくさい男だったが、ここで会えたのはちょうど良かった。
「おい」
「なんです?」
「待っててやるから、奢れよ」
「貴方にごちそうする理由を聞いても?」
「俺の誕生日だ。さっき気づいて、予定もな……」
表情を変える石野に、俺は言葉を霧散させた。
信じられない生き物を見るように、石野は絶句している。
「……なんだよ」
「津久居君、正気ですか」
「何が」
「男と誕生日に過ごすくらいなら、私は一人で蝋燭を消しますが……」
「…………」
贅沢者の理屈だ。
どこで見つけてくるのか知らないが、石野は美女のつれあいを絶やしたことがない。
興をそがれて、俺は扉を押した。
「ならいい」
「まあまあ、待って下さい。良ければ、友人を呼んで……」
「お疲れ」
「津久居君」
引き留める石野の言葉を聞かずに、俺はオフィスを出た。
女の世話を頼むほど、不自由してるわけじゃない。
オフィスビルの外は寒かった。
乾いた風に目を細めて、上着の襟を絞める。
体を引き締める風に、猫背になりながら、俺はオフィスと離れた駐車場に向かった。
【1月29日 20時】
灰色の街を歩きながら、港町に住みたいと思った。
窓を開け放てば、白い鳥が横切っていく。
朝の光に輝く、水平線の見える街だ。
届いた絵はがきの影響かもしれない。
あの風景はどこにあるんだろう。
その前に届いた、どこまでも続く道路の景色は。
緑の草原の中央を、果てしなく突っ切る、ドライビングロード。
あんな景色をバイクで飛ばしてみたい。
(気持ちがいいだろうな……)
駐車場の喫煙所まで待てずに、路地裏で煙草をくわえた。
ライターの細い火は、冬の風に掻き消えていく。
なかなか火がつかないうちに、歩き煙草を注意するような、着信音が鳴り響いた。
画面に表示された名前に目を見開く。
槙原渉。
「……津久居だ」
『もしもし。久しぶり』
彼の声はてらいもなく、友人のように明るかった。
『今、東京にいるんだ。良かったら会おうよ』