- 「ん……」
- ふと目を覚ますと、鉄平が俺を覗き込んでいた。
- 起きた場所はあかずの間だった。いつの間にか眠ってしまっていたらしい。
- ぼんやりと瞬きをしていると、鉄平の苦笑が聞こえた。
- 「こんな部屋でよく眠れるな」
- 「……鉄平に言われたくないけど」
- 目元を擦りながら、俺は言い返した。鉄平はこの部屋の住人だ。
- ホームレスだと名乗る彼は、何枚も服を重ね着して、毎日衣装を変えることもなかった。
- 「俺はいいんだよ。駅で寝たこともあるしさ。春人は違うだろ」
- 「そりゃ駅で寝たことはないけど……」
- 「汚い場所に春人を寝かせたくないよ。汚い奴の近くにもいて欲しくない。俺のことだけど」
- 「なにそれ」
- 冗談かと思って笑った。鉄平はよくホームレスネタで冗句を言う。
- だけど、彼の眼差しはどこか真剣だった。
- 「何かかけてやろうと思って……出来なかったよ。この部屋にあるものはみんな汚れちゃった。春人から貰った毛布も」
- 「……別に気にしないよ」
- 「俺は気にするよ。きれいで清潔な、立派な制服だ。汚しちゃいけない」
- 「…………」
- 眩しそうに目を細めて、鉄平は俺の制服を見つめた。
- 彼は優秀な生徒だったのかもしれない。前にそう言われた時は冗談だと思っていたけれど。
- きれいな制服をハンガーにかけた部屋に暮らす学生だったのかもしれない。
- ホームレスになる前は。
- 「清史郎は来ないんじゃないかな……。暗くなる前に帰りな。俺は大丈夫だから」
- 話題を逸らすように、鉄平は顔を背けた。彼は清史郎には気軽く接するのに、俺にはどこか気を使っている節がある。
- 二人の絆には立ち入れないようで、俺は少し不満だった。
- 「……清史郎には何も言わないのに」
- 「え?」
- 「この部屋で寝転がったって、鉄平に飛びついたって、そんなこと言わないのに」
- 「…………」
- 「俺だって、鉄平にごはんとか、服とか運んできてるのに……」
- 自然とふてくされた声になった。年上の彼には無意識に幼い態度を見せてしまう。
- 口を尖らせる俺に、鉄平はおろおろしていた。
- 「感謝してるよ。清史郎と同じくらい。いや、もしかしたら、それ以上に……」
- 「嘘。だって、鉄平がここにいる理由、教えてくれないじゃない」
- 「…………」
- 「清史郎は知ってるのに、俺には二人とも隠してるもん……」
- 言いながら、俺は寂しくなってきた。都合のいい人員として使われているだけみたいで。
- 同時に、子供みたいに拗ねる自分に対して、恥ずかしさも覚えていた。高校生にもなったのに、仲間はずれが嫌だなんて。
- 鉄平は笑うかな。
- 「…………」
- ふいに、視界の端に指先が見えた。鉄平の手のひらだ。
- わずかに躊躇をした後で、彼は俺の肩に触れた。ひどく遠慮がちに。
- 「汚したくなかったのは、春人がきれいだからだよ」
- 予想外の台詞に、俺は眉を上げた。
- 「男に言って、言い訳になる台詞?」
- 「見た目だけじゃなくてさ。おまえは空き家で寝たり、汚れた服を着るような人間じゃないんだ。そう、思うんだ」
- 「…………」
- 「清史郎は違う。あいつは公園で寝ても、河原で寝ても不幸じゃない。だけど、春人は……。春人にはきれいな制服のままでいて欲しいんだよ」
- 鉄平は眉を下げて、小さく微笑んだ。
- そうっと俺の腕を撫でて、ゆっくりと指を離していく。彼の指は汚れていた。この部屋で暮らしていれば当たり前だ。
- だけど、俺の服には、指紋一つ付いていなかった。
- 優しい人だ。
- 「事情を話さないのも同じ理由だ。清史郎に話した事を……今では後悔している。春人に話したら、また後悔するから」
- 「……言いたくないことなら、無理に聞いたりしないよ」
- 「これだけはわかって欲しい。春人を信頼してないわけじゃない、春人を巻き込みたくないんだ」
- 「…………」
- 「友達だと思ってる。清史郎と同じように」
- 俺は静かに目を見開いた。
- 自分でも驚くほど、穏やかな喜びに胸が熱くなっていく。
- 鉄平は小首を隠して、また冗談めかした。彼はすぐ冗談にするんだ。
- 俺たちをいつも、笑わせようとしてくれる。
- 「春人はどう? 俺の片思いでもいいけど」
- 「……毛布とって」
- 「え?」
- 「毛布。鉄平がお尻にしいてる奴」
- 俺が手を差し伸べると、彼は困惑まじりに腰を浮かせた。埃まみれの毛布を引きずり出して、俺へと差し出す。
- 「あの……。返せって言うなら、洗って返すよ。今日は無理だけど」
- 「言わないよ。なかったら風邪ひいちゃうでしょ」
- 頬を膨らませながら、俺は汚い毛布を両手に広げた。
- きらきらと埃が舞い散る中、真っ黒になった毛布を頭からかぶる。
- 去年、生誕劇で見た、マリアのヴェールのように。
- 「春人、汚いって……!」
- 「馬鹿じゃないの、鉄平。勝手に色々決め付けて」
- 目を丸くする彼を見つめて、俺はにやりと微笑んだ。
- 辻村よりも傲然と顎を逸らして、和泉よりも挑戦的に瞳を細める。
- 「制服が汚れたなら、洗えばいいんだよ。鉄平は洗い損ねたの?」
- 目を奪われたように、鉄平が息を呑む。
- 舞台役者になったつもりで、俺は汚い毛布をひるがえした。
- 見返りの視線で、彼に微笑みかける。
- 「今度からは毛布をかけて。それが俺の友達の役目なの」