- 俺が記憶を失ったのは二回目だそうだ。
- 病室の景色は無機質で、かすかにも記憶を刺激するものはない。懐かしさという感覚は残っている気がするが、何に向けられるべきものなのかはわからない。
- 訪れた家族は俺の本を預けていった。ところどころ難点はあるが、好きな読み物だった。
- おそらく俺が書いたんだろう。
- 真夜中の月が冷たく病室を濡らす。眠りすぎた日の夜は目が冴えて、眠ることにさえ疲労が伴う。
- そんな夜に彼は来た。
- 懐かしさ——その感覚は動かなかった。ただ、息を止めた。真夜中の病棟に立つ侵入者は、亡霊のようだったからだ。
- 目深に被った帽子が、そう思わせたのかもしれない。
- 「こんばんは」
- 声は澄んでいた。好きな声だと思う前に、少年は帽子を外した。
- 「俺のこと覚えてないんだろ? 記憶喪失だって?」
- 「……そうだ。おまえは」
- 「覚えなくていいよ。明日にはいない」
- 笑いながら、彼は寝台に腰掛けた。身構える隙すら与えずに、俺の手を握り締める。
- 「行くってどこに? 俺の友達だったのか? 名前は?」
- 「煉慈は相変わらず、質問が多い」
- 笑う顔には愛嬌があった。死んだはずの懐かしさという感覚がかすかに揺れる。それとも、これはただ、第一印象に向ける好意なのか。
- 繋いだ指を揺らしながら、少年は俺の頭を撫でた。
- 「危ない目にあわせてごめんな」
- 「……おまえのせいで死にかけたのか?」
- 「さあ、どうかな。煉慈の気持ちは途中から、誰かが持ってっちゃった気がするよ」
- 「おまえは誰だ?」
- 「誰でもないよ。覚えてないなら、友達でもないだろ」
- 無償に俺は傷ついた。
- 悲しくなって目を細める。少年はひどく愛しげに俺の髪を撫でていた。その手の暖かさに胸が震える。
- 別れたくないと思った。
- 「明日も来いよ、思い出すから。名前を言えよ、思い出すから」
- 「言わないよ。もう行かなきゃ」
- 「どこに行く? いつ会える?」
- 「会えないよ。鉄平が待ってるから」
- 「鉄……?」
- 俺の言葉を待たずに、少年は俺の体を抱きしめた。その体温も腕の形も、なんとも言いがたく肌になじんだ。
- 子供の頃、お気に入りだった毛布のように。
- それに包まれていれば、俺はいつまでも安心できたのだ。
- 「さようなら、煉慈」
- 「いやだよ、行くなよ」
- 自分の声の情けなさに、涙があふれそうになる。笑う少年の肩も小刻みに震えていて、なおさら切ない気持ちにさせた。
- 「行くなよ、教えてくれよ、おまえのこと……」
- 頬をすりよせて少年は笑った。その頬が濡れていなくても、俺は彼の嘆きがわかった。
- 彼は俺を失いたくないのだ。
- 俺をとても愛していたのだ。
- なのに、何故、遠くに行くというんだろう。
- 「大好きだったよ、煉慈。ごめんな。先生が死んだなら、鉄平のためにしてあげられることはもうないからさ」
- 後は傍に行くだけなんだ。少年はそう呟いて、俺から体を離した。
- にっと笑いながら、彼は目深に帽子を被る。汚れた服の袖口でぐいぐいと俺の目元をこすった。
- 遠ざかる足音に肺の奥が震えて、俺は小さく背中を丸めていた。俺が記憶を失うのは二度目だ。
- 明日の朝、三度目の喪失が訪れることを願った。
- こんな短い逢瀬でさえ、名前も知らない彼との別離が、生涯の傷になるとわかっていたから。