- 俺を見つけたのが槙原先生だったら、荷物を放り出して駆け寄ってきただろう。
- 俺も煙草を投げ捨てて、路地裏まで走って逃げたはず。
- 彼は槙原先生じゃなかった。だから、歩いて近づいてきた。
- 生真面目で朴訥とした容貌に、眉間の皺だけを刻んで。
- 俺も逃げなかった。動けないまま、立ち尽くしていた。
- 南先生は煙草を取り上げて、アスファルトに投げ捨てた。
- 「なんだよ、オッサン!」
- 「鉄平、誰だこいつ」
- 仲間たちが俺を守るために、野良猫の唸り声を上げる。南先生に嘲笑を向けるか、仲間たちを嗜めるか迷って、どちらも出来ずにうつむいた。
- 彼からは怒気を感じた。長い手足が動いて、胸元で拳を作る。
- 咄嗟に、俺は小声で囁いた。
- 「止めろよ。フクロにされるよ、ここで俺を殴ったら」
- 「…………」
- 「場所を移そう」
- 彼の腕をぽんと叩いて、俺は仲間たちに別れを告げた。ぽんと叩いた自分の手のひらを見つめる。塾にいた時はあんなに馴れ馴れしく彼に触れなかった。
- いつでも彼が怖くて、彼が目障りだった。
- 俺が先に立って道を先導した。彼は黙って後ろを付いてくる。馬鹿だなあ、先生。仲間の巣に連れ込むかもしれないのに。
- それとも、あれだけ立派な体格があると、何も怖くないんだろうか。
- 「槙原の金はどうした」
- 背中から尋ねる声は、意外なほど穏やかだった。路地裏にばら撒かれた残飯を踏みつけて俺は歩く。
- 「使った。こんな遅くまでどうしたの。風俗帰り?」
- 「家に帰っているのか。槙原が探してたぞ」
- 「南先生、真面目そうだけど。そういう人に限ってむっつりなんだよね」
- 「興信所を使う勢いだったんだぞ、槙原は。どこで暮らしてる。何をしてるんだ」
- 「どんなコースを選ぶの。若い女の子紹介してあげようか。3万あればきっと……」
- ぐいっと襟首を掴まれて、俺は血の気が引いた。殴られる、そう思ったからだ。
- だけど、南先生は俺を振り向かせただけだった。ぐっと肩を掴みながら、無愛想な顔で告げる。
- 「知り合いの女性のことを、そんな風に言うもんじゃない」
- 「…………」
- 「痩せたな。飯は食えてるのか。……煙草なんか吸っていて驚いた」
- 南先生は俺から手を離すと、自販機に向かっていった。彼を見る時いつも上目がちになることに、俺は気づいた。
- 顎を引いて、うつむいている。叱られる前から叱られたように。
- 「コーヒーでいいか」
- 「ビール」
- 「調子に乗るな……」
- 「それはあんたの方だよ。なにやってんの、今さら。俺に関心なんてなかったくせに」
- 意識しながら顎を持ち上げた。俺はもう二度とあの塾には行かないだろう。
- なら、彼も先生じゃない。俺も生徒じゃない。対等な場所に立つ男同士だ。
- 気圧されてたまるものか。
- 「今だって関心はないだろう? 義理? 槙原先生のため? どうして俺に声をかけた」
- 「家の住所を言え」
- 「あんたが楽しんだコースを教えろよ」
- 「おまえの実家と今住んでいる場所だ」
- 「女の子の名前は? どんなプレイですっきりした?」
- 「古川」
- 「うるさい」
- 「舌を引っ込めろ」
- 「は?」
- 次の瞬間、俺の体は宙に浮いていた。
- 「………ッ」
- 背中からアスファルトに叩きつけられて、激痛に息が止まる。何をされたかわからなかった。柔道技か?
- 南先生が俺の胸倉を掴む。殴られる! 俺はまた顎を引いている。
- 先生は半ば担ぐようにして、俺の体を引きずっていった。さして体格差もないのに、どこにそんな力があるのかわからない。
- 「離せよ……!」
- 「そのまま手を上げてろ」
- 「は!?」
- キキーッとブレーキ音を立てて、タクシーが目の前に止まった。怒りで顔が引き攣りそうだった。
- 「三鷹まで」
- 「ジブリの森かよ! 用はねえよ!」
- 「俺の家だ。すいません、今乗せます」
- 先生は俺の体をタクシーへ蹴りこんだ。汗一つも掻かずに、案外暴力的な人だ。
- 「行かねえよ、あんたの家なんか!」
- 「だったら実家の住所を言え。……槙原に聞けばわかるか。起きてるかな」
- 「ちょっと……!」
- 「おまえを見つけたと言えば、あいつは飛んでやってくる」
- 携帯電話を握り締めたまま、南先生はため息をついた。レンズ越しの眼差しで、静かに俺を見つめる。
- 「迷ってる」
- 「何が」
- 「おまえのことを槙原に言うべきか」
- 「…………」
- 「繰り返すだろう、おまえたちは」
- 車のテールランプが窓の外を走り抜けていた。
- 背中の痛みがじわじわ押し寄せて、俺は肘を擦りむいていることに気づいた。服にも穴が開いている。
- こいつのせいだ。
- 嘲笑をしようか、怒鳴りつけようか、迷って目を閉じた。うつむくかわりに、窓の外に視線を逸らして。
- 「……お腹すいた」
- 「ピザを取ってやる」