- 花の名前は知らない。淡い色の優しい匂いだった。
- 「辻村君。わざわざ来てくれたんだ、ありがとう」
- 変わらぬ声に胸を撫で下ろしながら、小走りになる槙原にひやひやする。
- こちらから歩み寄って隣に並ぶと、身を乗り出して花束を覗き込んできた。
- 「その花束どうしたの? ファンの子から?」
- 「おまえにだよ」
- 「僕に?」
- 「退院おめでとう」
- たっぷりと皮肉をこめて言ってやったつもりだが、久しぶりの再会に頬がゆるんでいた。
- 槙原は花束を抱えて、素直に嬉しそうな声を上げた。
- 「わー、ありがとう! こんな良かったのに……」
- 「おまえはさ」
- タクシー乗り場まで歩き出しながら、俺は声を低めてみせた。今度こそ叱ろう、今度こそ叱ろうと、こいつが生死をさまようたびに思う。
- もう一度声が聞けた感激で、いつも生ぬるく許してしまうけれど、誰かが言ってやらなきゃだめだ。
- その役目は俺以外にないと思った。
- 「おまえは俺たちが卒業した後も、入退院繰り返すつもりかよ」
- 「あはは……。ごめんね」
- 「あははじゃねえよ」
- 「本当にごめん。心配してくれてありがとう。この花束、どこに飾ろうねえ」
- 見上げる視線は柔らかく、嬉しそうに細められていた。顔を顰めて怒らなきゃいけないはずなのに、その笑顔にさっそく別のことを考えてしまう。
- そんなに花が好きなら、毎週買ってやるよなんて。
- (ないか。なにやったってリアクションでかいだけだもんな。感激屋って言うか……)
- 彼も花の名前は知らないだろう。
- 「次に花束を上げるのは僕の番だろうな」
- タクシー乗り場の列に並びながら、槙原が微笑んだ。視線を向けて、俺はその意味を尋ねる。
- 伏せた瞼は優しく、寂しさに満ちていた。
- 「卒業式。みんなにね、花束を用意しようと思ったんだ」
- 「へえ?」
- ひいきだとか特別視を気にする槙原にしては、意外な台詞だった。
- 「ひいきになっちゃうかもしれないけど……卒業式なら明日から来ないし、君たちが悪く言われることはないでしょう? だからね、花束と記念品くらい良いかなって」
- 花を包むフィルムを指先で整えて、槙原は眉を下げる。この表情がどんどん崩れて泣き出す様が容易に想像できた。
- 春の季節に。
- 「記念品って? 名入りタオルはよせよ」
- 背を撫でる代わりに、俺は冗談めかした。声を立てて槙原は笑う。
- 卒業式を思うたび、桜色の甘い喪失の予感がする。愛しい物語の最後のページのように。
- 読み終えなければ、読み返すことも出来ない。
- 知りつつも、仕様もなく。
- 「ほんとにね。何がいい? 僕はあんまりセンスないからなあ」
- 「知ってる」
- 「お揃いのものがいいよね。大学に行って使えるものがいい」
- 「清史郎が怒りそうだな。俺にもって」
- 「来年って言うよ。学校っていう舞台で頑張ったのは君たちだもん」
- 褒め言葉は勲章のように気分が良かった。口元を指先で押さえて、俺もひそやかに笑う。
- 槙原の顔を覗き込んで、にやりと口端を上げた。
- 「せいぜい、ひいきしろよ。後で反省するくらい、特別に甘やかして」
- 「あはは、止めてよ。ホントに反省会しちゃうから」
- 「仕方ないじゃないか」
- 聞き慣れた笑い声を、肩を掴んで止めさせた。これは心配をかけた罰だ。
- 名前の知らない花にまじないをかけて、優位に立ってみせる。
- 「俺たちはおまえの特別な生徒なんだから」
- 「…………」
- 槙原はうろたえた。
- まるで重大な秘密を握られてしまったように。
- 桜が咲く季節にも、彼はこうして、立ち尽くすだろう。
- 俺は意地の悪い笑みを浮かべて、タクシーの中に槙原を押し込んだ。