• 「魔法をかけて」
  •  大げさじゃなく神聖な気持ちで、俺は槙原先生にお願いした。誕生日より、クリスマスより、身を震わせて待ちこがれた日がやってくる。
  •  明日、兄ちゃんの家に泊まりに行く。
  •  数年ぶりの悲願を叶えて、気が狂うほど欲しかったものを、24時間独り占めする。
  •  夢みたいな時間。
  •  どうしても、失敗したくなかった。
  •  俺は本当に本当に兄ちゃんが大好きなのに、何かがちょっとすれ違うと、兄ちゃんをこてんぱにするようなことを言ってしまう。
  •  おしゃべりなファイアードラゴンみたいに、ぽろっとよけいな炎を漏らして、思わぬ業火で兄ちゃんを大火傷させてしまうんだ。
  •  だから、心の底から俺は願った。
  • 「絶対に、絶対に、ケンカしないように、魔法をかけて。今作ったいかさまの呪文でもいいから」
  •  槙原先生はじっと俺を見つめてから、ふと笑みをこぼした。先生は気づいている。俺に甘い瞠でもなく、奇跡に近い咲にでもなく、先生に願い事をした理由を。
  •  鉄平が大好きだった先生は、俺の頭を撫でて、小指を立てた。
  • 「いいよ。はい、指切り」
  •  祈りを込めて、俺は小指を絡める。
  • 「御影君はケンカしないで津久居君と仲良くします。指切りげんまん。ビビデバビデブー」
  •  目を閉じて祈りながら、ときめきに鼓動が高鳴った。
  •  発射したミサイルみたいに、心が解き放たれていく。先生が許してくれるなら、俺は兄ちゃんを好きなだけでいられる。ああ、なにをしよう。なんだって出来る。あれもこれもそれもしたい。俺は全部、兄ちゃんとやりたい。未熟な犬なら漏らしてしまうくらい、俺は興奮していた。
  •  その夜は眠れなかった。


  •  学校が終わるとすぐに、電車に乗って東京に向かった。 俺は人に会うたびに自慢した。今日、兄ちゃんの家に泊まりに行くんだ。
  •  「あら、良かったわね」とみんな言ってくれたけど、どれほど偉大な出来事かちゃんとわかっていない。俺は長距離旅行を自慢したいわけじゃないんだ。
  • 「例えばさ、あんたの一番好きな食べ物って何?」
  •  サラリーマンのおじさんの新聞を下げて、顔を覗き込んだ。おじさんは怯えたように目を背ける。
  • 「……天丼、かな」
  • 「ずっと我慢してた天丼を10年ぶりに食べれるってこと。そういう気持ちってこと!」
  • 「ああ……。それはいい日だろうね」
  •  おじさんに納得してもらって、俺は満面の笑みを浮かべた。俺は精一杯言葉を尽くして、兄ちゃんがどれだけ格好いいか、どれだけ面白いか、どれだけ優しいかを説明する。話しながら俺が一番わくわくしていた。
  •  白髪のおばあさんは、俺にこう尋ねた。
  • 「あらまあ。そんなにいいお兄さんと、どうして10年も離れていたの?」
  •  眉を下げて、俺は外人みたいに肩をすくめた。
  • 「それが兄ちゃんの唯一の欠点なんだ」
  • 「あらあら」
  • 「この話をするとケンカになるからもうしないよ。ケンカしないって決めたんだ。仲いいことだけするって約束したから」
  • 「お母さんと?」
  • 「ううん、先生と」
  •  夢見心地で、これから会う兄ちゃんを想像した。優しい顔や、叱る時の顔。それは気を抜くとすぐに、十代の兄ちゃんの顔になっちゃったけど、頑張って今の兄ちゃんの顔にしていく。
  •  そうしているうちに、気持ちはどんどん高ぶっていった。たぶん、ちょっと、高ぶりすぎた。
  •  心臓の音が大きくなって、息がしづらくなる。
  •  兄ちゃんの顔を思い浮かべると、顔が熱くなった。
  •  なんていうことだろう。
  •  最寄り駅に着いた頃には、憧れの大スターに会う女の子みたいに、俺はもじもじしてしまっていた。


  •  こういうことは子供の頃にもたまにあった。
  •  兄ちゃんがあまりに格好いいと感じた時や、どこかに泊まりに行った兄ちゃんが帰ってきた時。なぜか急に恥ずかしくなって、内気な子供のようにうまく話せず、物陰から兄ちゃんを覗き見たりした。
  • 「もうすぐ東京だよ。お兄さんは迎えに……」
  • 「兄ちゃんの話はしないで」
  •  スーツの女の人の台詞を遮って、俺は赤面した。兄ちゃんを思い浮かべると、顔が赤くなってしまう。なのに、頭から離れずに、何度も兄ちゃんの顔が浮かんできた。
  •  今は記憶の中で学生服の兄ちゃんが、キッチンに隠れる俺に呼びかけている。
  • 「プリン買ってきたぞ」
  • 「後で……」
  • 「あ、照れてる」
  •  兄ちゃんは苦笑を浮かべて、玄関で靴を脱いだ。おかしな子、と母さんが愚痴をこぼす。
  • 「さっきまで、まだ帰ってこない、まだ帰ってこないってぐずってたくせに」
  •  母さんに相槌を打ちながら、兄ちゃんがゆっくりと俺の元にやってくる。その顔や、手や足を見つめては、心臓がはちきれそうになっていた。
  •  きっと幼心に、気づいていたんだ。
  •  この人が世界で一番、俺を愛してくれている人。この人が俺が世界で一番愛している人。
  •  そっと屈んだ兄ちゃんが「いい子にしてたか」と俺を抱き上げる。
  •  悲しいような、嬉しいような、不思議な気持ちに満たされた。今思うと、あれは愛しさだったんだろう。
  •  ひらがなしか読めない頭でも、愛しさが胸を締め付ける感覚はちゃんと学んでいたんだ。とても切なく誇らしいことだ。
  •  待ち合わせの時間まで、後5分。
  •  深呼吸をひとつして、俺は猛ダッシュで近くのATMボックスに逃げ込んだ。


  •  俺は瞠に相談の電話をした。
  • 「瞠、緊張してきた」
  • 「緊張!? 清ちゃんが!?」
  •  瞠はゴジラを発見したかのような大声を上げた。
  • 「なんで緊張してんの」
  • 「なんかあ……。兄ちゃんが格好良すぎて……」
  •  瞠は「はっ」と笑った後、猫なで声でこう言った。
  • 「安心おしよ。すぐに失望できると思うから」
  •  俺は煉慈にもアドバイスを求めた。
  • 「ああ、わかる。家族と二人きりって緊張するよな。話題も夕飯のことしかないしさ」
  •  晃弘は慰めてくれた。
  • 「津久居さんは急に怒鳴ったり、飛びかかったりしないから大丈夫だよ」
  •  春人は誰よりも納得してくれた。
  • 「賢太郎ってそういうところあるよね。俺もたまに素でときめくよ。いいなあ。どうやったら、俺もさまになるのかなあ」
  •  咲は煽ってきた。
  • 「よう、清史郎。愛してる。今夜は寝かさないぜ」
  •  さまざまな意見に混乱しかけていると、ATMボックスの扉がガチャリと開いた。慌ててどこうとした俺の目に、兄ちゃんの姿が飛び込んでくる。
  •  予告なしの登場に、心臓が止まった。
  • 「こんな所にいるなよ。探したぞ」
  •  そう兄ちゃんは言った。
  •  俺は頭が真っ白だった。かーっと血が昇って、だらだらと変な汗をかく。
  •  鋭い瞳が俺を見てる。
  •  その口が動く。
  • 「何度も電話したんだぞ。話し中だった」
  •  大変うろたえてしまった俺は、携帯電話を取り落とした。
  •  兄ちゃんが眉を寄せて、携帯を拾い上げる。
  •  画面を確認して、耳に押し当てるだけの動作さえ、衝撃的な映像として目に焼き付いた。
  •  超格好いい……。
  •  わかってたけど、俺の兄ちゃん、世界一格好いい!
  •  衛星を乗っ取って世界配信したい気持ちと、両手で顔を覆ってしゃがみ込みたい気持ちが、頭の中でぐるぐるする。俺はいっぱいいっぱいだった。普段緊張しないから、こういう時、非常に泡を食ってしまう。
  •  なのに、隠れる冷蔵庫がない。
  •  黙ったままの俺に、兄ちゃんが眉を上げた。
  • 「……照れてるのか?」
  •  見抜かれた!
  •  違うよ、と言おうとしたら、口元がにやけそうになった。
  •  もじもじする俺に優しく笑って、兄ちゃんがそっと俺の頭を撫でる(抱っこはもう無理だから)
  •  あの頃と同じシーンを想像して、どきどきしながら待っていると、予想はずれの声が聞こえてきた。
  • 「馬鹿か、おまえ」
  •  ぶっきらぼうに、兄ちゃんは言った。
  •  その声には羞恥が混ざっている。
  •  びっくりして顔を上げると、照れ臭そうに顎を引いていた。
  •  兄ちゃんはそそくさと目を逸らして、ボックスの扉を押し開けた。その首筋の後ろが緊張をただよわせている。
  • (兄ちゃんも照れてる)
  •  そう自覚したとき、鼓動が跳ね上がった。
  •  俺の恥ずかしさが兄ちゃんにうつって、兄ちゃんの恥ずかしさが、また俺に戻ってきてしまった。
  • 「兄ちゃん」
  •  俺は兄ちゃんの背中にしがみついて、ボックスに引き戻した。通行人のおじさんが、閉まるドアを振り返る。
  •  ATM画面にいるイラストの女の人が、丁寧に同じ言葉を繰り返している。
  • 「おい、こら」
  • 「兄ちゃん、兄ちゃん」
  •  いろんな気持ちがこみ上げたけれど、全部伝えるのは難しかった。だから、俺は何度も呼びかけた。
  •  ぎゅうっと腕に力を込めて、兄ちゃんの存在を確かめる。
  •  やっと取り戻した宝物を俺は噛みしめていた。もう兄ちゃんは俺をだっこできないから、俺から手を伸ばさなきゃいけない。例えばこうやって。
  •  頬を押しつけて、深く息を吸い込む。兄ちゃんの匂いがした。俺はとても安心する。
  •  こうすることで、改めて思い知った。
  •  こうしていることは、これ以上ない幸せだって。
  • 「外だろうが……。いくつになったんだ」
  •  振り返らないまま、兄ちゃんが俺の頭を叩く。その声にもう照れはなかった。
  •  はにかみながら、俺は頬をすり寄せた。
  • 「いい子にしてたよ。兄ちゃんによろしくって」
  • 「誰が?」
  • 「東京駅の駅員さん。兄ちゃんに会ってみたいって言ってた」
  •  複雑そうな顔で、兄ちゃんが俺を引きはがした。片腕でボックスのドアを押し開ける。
  • 「あまり、知らない奴に俺の話をするなよ」
  • 「なんで? 俺は兄ちゃんの話するの好き」
  •  ATMから出ると風が強くなっていた。兄ちゃんのバイクの後ろに乗るのを期待していたけど、兄ちゃんは歩いて駅まできたらしい。
  •  並んで歩きながら、兄ちゃんのアパートに行った。俺はずっと喋っていた。


  •  夕飯はすき焼きで、デザートはメロンだった。
  •  田舎に帰るたび、ばあちゃんが出してくれたメニューだ。兄ちゃんなりに俺を歓迎しようとしてくれたんだろう。
  •  豪華な食事は楽しいけれど、ちょっとだけ他人行儀だ。家族の特別な日にも思えるけど、お客さんの接待のようにも思える。
  •  でも、食べはじめたら、肉がおいしくて、余計なことは忘れてしまった。
  • 「うまいな」
  • 「うん」
  •  肉を食いながら、兄ちゃんは当然のように、ビールの蓋を開けた。俺はまじまじと見つめてしまう。
  •  戸惑いつつも、父さんにやっていたことを思い出して、缶に手を伸ばした。
  • 「つぐのやってあげる」
  • 「は?」
  •  今度は兄ちゃんがまじまじと俺を見つめていた。
  • 「どこで覚えた。槙原がやらせるのか?」
  • 「何言ってんの? 父さんにもしてたじゃん」
  • 「そうか?」
  • 「ビール、いつから飲むようになった?」
  • 「18」
  • 「ん? お酒は二十歳からじゃなかったっけ?」
  • 「法律ではな」
  • 「兄ちゃん、春菊よけて」
  • 「食えよ」
  • 「椎茸食べたい」
  • 「入ってない」
  • 「なんで?」
  • 「まずいから」
  •  ごはんを食べ終わると、兄ちゃんは立ち上がって、お皿を片づけた。もちろん俺も手伝った。昔よりも役に立てて、俺は得意顔だった。
  • 「肉、買いすぎたな」
  • 「すげーお腹一杯! でもメロン食べる」
  • 「もう食べるのか」
  • 「うん!」
  • 「良く食えるな。わかった、切ってやる」
  • 「手伝う?」
  • 「いい、座ってろ」
  •  狭いキッチンで洗い物をしながら、兄ちゃんは換気扇をつけた。くわえ煙草をしながら皿を片づけていく。
  •  兄ちゃんの背中を見つめながら、俺はあの頃兄ちゃんがしていたエプロンの色を急に思い出した。ベージュと赤のストライプだ。兄ちゃんの足下でお話する時、俺はその模様であみだくじをしていた。
  • 「兄ちゃん、何番がいい?」
  • 「何番まである?」
  • 「ええと、1、2、3、4……8番」
  • 「じゃあ、3番」
  • 「タンタンタタン……。大当たりー、一等賞! ハワイ旅行が当たりました!」
  •  キッチンで火を使わない時は、兄ちゃんの足下にいてもいいんだった。火を使っている時にふざけると、兄ちゃんはものすごい勢いで怒るんだった。だから、キッチンの外から俺は大声で話しかけた。
  • 「ねえ! 兄ちゃん、聞いて聞いて!」
  •  キッチン台が一通りきれいになると、兄ちゃんはまな板の上にメロンを置いた。
  • 「なんだ」
  •  メロンに包丁をあてがったまま、兄ちゃんが動きを止める。俺が後ろから、首筋に腕を巻き付けたからだ。
  •  軽く膝を曲げてみる。
  • 「もう、ぶら下がれない?」
  • 「止めてくれ。腰が抜ける」
  • 「今は俺の方が背え高いもんなー」
  • 「ふざけるな」
  •  包丁を握ったまま、兄ちゃんが険しい声を発した。びっくりして俺は後ずさる。
  • 「ふざけてねえし。並んだ感じ、俺のが高くない?」
  • 「馬鹿言え。その柱に背をつけてみろ」
  •  刃物で脅迫されてしまっては、大人しく従うしかなかった。兄ちゃんは慎重な手つきで、俺の頭のてっぺんあたりに線を引く。場所を交換して、今度は俺が兄ちゃんの背をはかった。
  • 「あー……。兄ちゃんのがちょっと上?」
  • 「ほら見ろ」
  •  兄ちゃんは勝ち誇って、ペンをケースに投げ入れた。口笛混じりにメロンを刻んでいく。
  •  それでもやっぱり、あの背中にぶら下がることは出来ないんだろう。昔みたいに勢い良く飛びついたら、兄ちゃんはぐきっと体が反対に曲がってしまう。
  •  おんぶなら出来るかもしれないけど、兄ちゃんのふくらはぎを梯子にして、アスレチックする事は出来ない。俺が好きだった回転車輪も、肩車も。
  • 「おい、無理だぞ」
  •  いつの間にか、俺はまた、兄ちゃんに腕を回していた。切ったメロンを並べながら、兄ちゃんが苦笑いする。
  • 「いつもそうだったな。台所に立ってると後ろからいたずらしてきて……」
  • 「最後の方は、兄ちゃんの助けがなくても、兄ちゃんに登れるようになってたんだよ。覚えてる?」
  • 「ああ。切ったぞ、どけよ」
  •  皿を手にした兄ちゃんが振り返る。俺がどかなかったから、間近で向かい合う感じになった。
  • 「どけって」
  • 「兄ちゃん……」
  •  自分でもびっくりするくらい、甘えた声が口から飛び出す。
  •  メロンの甘い匂いが懐かしい。
  •  メロンを懐かしいと思ったことなんて、今まで一度もなかったのに。
  •  俺は兄ちゃんを抱きしめて、首筋に顔を埋めた。飛びかかるんじゃなく、そっと正面から抱きしめると、兄ちゃんは記憶とは比べものにならないくらい細かった。頼りなささえ覚えた。
  •  やれやれと兄ちゃんが息を吐く。メロンを載せた皿のふちで、あやすようにトストスと俺の背を叩いた。
  • 「図体がでかくなっても甘ったれだな。座れよ」
  • 「俺、甘えん坊だった?」
  • 「時々な。ほら、清史郎」
  • 「昔の兄ちゃんは、今の俺より年下だったのに、優しかったなあ」
  •  なにげなく呟いた。
  • 「俺、嫌われ者だったのに」
  •  突然、視界が変わって、俺は目を回した。
  •  兄ちゃんが乱暴に皿をおいて、俺の両腕をつかんでいる。息を忘れるほど、兄ちゃんは怖い顔をしていた。
  • 「誰が言った、そんなこと」
  • 「違う? 母さんも父さんも、俺に手を焼いたって言ってたよ」
  • 「それは嫌ってるんじゃない」
  • 「別にいいよ。兄ちゃんは俺が好きだっただろ? 俺は兄ちゃんがいれば良かったし」
  •  兄ちゃんが目を細める。笑いながら、俺は兄ちゃんを引き寄せて、ごろごろと懐いた。
  • 「俺だけじゃなくて、父さんも母さんも、兄ちゃんが一番好きだったよ。だけど、兄ちゃんは俺を一番好きでいてくれた。そうだろ?」
  • 「清史郎、それは違う。俺だけじゃなくて、お袋も親父もおまえを好きだった。俺よりもおまえを……」
  • 「俺は二人とも嫌いだよ。だって、兄ちゃん泣かしたし。俺たちをバラバラにしたし」
  •  兄ちゃんは言葉を失って、どこか苦しそうな顔をした。
  •  まずいかも? 俺はぎくりとして、慌てて話題を変えることにした。ケンカはしないって先生と約束したんだ。
  • 「メロン食べよう、兄ちゃん」
  •  兄ちゃんの手を引いて、俺はキッチンから連れ出した。


  • 「メロンうまい。もう一切れ食っていい?」
  • 「ああ」
  • 「志村食いしてもいい?」
  • 「ああ」
  • 「超早いから見てて!」
  • 「汚いから止めろ」
  •  メロンを刻んでから、兄ちゃんはぼんやりしてしまった。兄ちゃんは母さんや父さんのことが、あんまり得意じゃないんだ。話題にしたのはまずかった。
  • 「風呂に入ってこい」
  • 「一緒に入ろう」
  • 「入らない。狭くて入れない」
  • 「じゃあ、バタフライマックスやるから、その時だけ見に来て」
  • 「なんだ、その技」
  •  ようやく兄ちゃんが笑った。
  •  夕食、食事、睡眠と、工場のように、兄ちゃんは俺に作業を言いつける。すべてが楽しかったけど、何かが物足りなかった。本当に大事なことを話していないし、本当に大事なことをしていないような気がする。
  •  夏休みと同じだ。
  •  花火、お祭り、プール、川遊び。楽しいことをたくさんしても、記憶に残る思い出は、誰とどれだけ大事なことをしたかで変わる。
  •  大事なことをしていれば、雨の日のバス停の景色さえ、俺たちは一生覚えていられる。
  •  今日の夜もそんな日にしたかった。
  •  すき焼きも、メロンも、一生の思い出になるように。
  •  次に思い出した兄ちゃんの顔が、二十代の顔になるように。
  • 「兄ちゃん、兄ちゃん」
  • 「ん?」
  • 「なんか俺に質問して。いつも俺が聞いてばっかだから、たまには兄ちゃんから俺のこと聞いてよ」
  •  ノートパソコンをいじりながら、兄ちゃんは頬杖をついた。
  • 「おまえのことなら聞かなくてもわかる」
  • 「なんで?」
  • 「いろいろ情報網があってな」
  • 「スパイだ! でもスパイも知らない秘密がある。俺にはたくさん」
  • 「へえ」
  • 「ねえ、聞いて聞いて!」
  •  注意を向けようとパソコンの蓋を閉めると、兄ちゃんが指を挟んだ。渋面で頭を掻きながら、じっと俺の顔を見つめる。
  • 「気になる女の子は」
  • 「いない。他の質問は?」
  • 「昔の話でもいい。誰かいなかったのか」
  • 「いないよ」
  • 「……初恋は?」
  • 「保育園の先生が好きだった」
  • 「もっと自我のある恋愛の話をしろよ。モテないはずないだろ、俺の弟なんだから」
  • 「モテないよ」
  •  俺はだんだん機嫌が悪くなってきた。
  • 「俺は女の子が嫌いだし、女の子も俺が嫌いだよ」
  • 「そうなのか?」
  •  兄ちゃんはショックを受けていた。
  •  眉間に皺を寄せながら、兄ちゃんは急に居住まいを正した。
  • 「そこに座れ」
  • 「座ってる」
  • 「正座だ」
  • 「ええ……」
  •  仕方なく、俺は正座した。あからさまに退屈そうな俺に対して、兄ちゃんは今日初めて、前のめりに話し出す。
  • 「友達は多いはずだ。女の友達はいるだろ」
  • 「いるよ」
  • 「その中に好きな奴はいないのか」
  • 「みんな好きだよ」
  • 「なんだ、紛らわしい。女は嫌いだと言うから」
  • 「友達じゃない女の子はあんまし好きじゃない」
  • 「それはみんな一緒だ。好みがある。気が合うとか、時間が合うとか、体が合うとか」
  •  俺は不愉快な気持ちを隠さなかった。
  • 「で?」
  • 「彼女を作れよ」
  •  不愉快さは怒りに変わった。
  • 「嫌だけど」
  • 「どうして。おまえくらいの年の奴は、みんな彼女を欲しがるもんだ。咲に紹介……春人に紹介してもらえ。あいつは喜んで協力する」
  • 「春人と一緒に女の子に会うのは嫌いじゃないよ。でも、それは女の子の前にいる春人が面白いんであって、女の子自体は面白くねえし」
  • 「友達になれる女を探せ。それから、特別な相手を見つければいい」
  •  さっきまでの憂鬱そうな顔はどこへやら、兄ちゃんは満足そうに笑っていた。
  • 「女のことなら多少アドバイスは出来る。おまえになにをしてやればいいかわからなかったが、ようやく答えが見えてきたな」
  • 「見間違いじゃねえ?」
  •  俺の仏頂面を無視して、兄ちゃんはにこにこと腕を組んだ。
  • 「まあまあ。物の試しに、引っかけてみろよ」
  • 「引っかけるって?」
  • 「好みの女を」
  • 「兄ちゃんも誰か引っかけてんの?」
  • 「まあな」
  • 「それで今は? 誰か引っかかってる?」
  • 「今は……」
  • 「引っかかってないんだ。全部おっこっちゃったんだね。じゃあ、最初から余計なことしなくていいじゃん」
  • 「待て」
  • 「ねえねえ、他の質問は?」
  • 「待て。話は終わってない」
  •  兄ちゃんのしつこさに、俺はテーブルをだんだん叩いた。
  • 「この話つまんねえし」
  • 「どうしてつまらないんだ。男同士が集まったら、この手の話以外にすることないだろ」
  • 「女の話するくらいなら、兄ちゃんの話してよ!」
  • 「真剣に答えろ。おまえは女性不信なのか? お袋や義理の妹と何か……」
  • 「知らねえし! 俺は女の子といるより兄ちゃんといる方がいいし、女の子の話するより兄ちゃんの話してる方がいいよ! なんでかって言うと、女の子は道を歩けば何人も会えるけど、兄ちゃんには一〇年間会えなかったからだよ!」
  •  立て膝になって、俺はまくし立てた。
  •  絶句する兄ちゃんを見下ろしながら、服の袖で目元をこする。
  • 「……女の子なんかより、おもちゃなんかより、俺は兄ちゃんが欲しかった。兄ちゃんの手紙が欲しかった。やっと我慢しないでお腹一杯天丼食べられるっていう時に、なんでピーマンの肉詰めすすめらんなきゃなんねえの」
  • 「天丼……?」
  • 「ひどいよ、あんたはいつも。……ああほら、ケンカしないって先生に約束したのに破らせた」
  •  被害妄想ないい方だったけれど、兄ちゃんは表情を改めてくれた。泣き出しそうになる俺の手を、そっと掴んで外させる。
  • 「わかった。悪かった。この話はまたにしよう」
  • 「俺は女の子より兄ちゃんが好きだよ……」
  • 「結論を急ぐな。もう少し落ち着いたら、おまえにもわかる」
  • 「俺は変わらない」
  • 「その辺は変わったっていいんだ。騎士のように一途に、俺に忠誠を尽くす必要はない。俺より特別な人間が出来たって、軽薄なことじゃないんだ。大切な物は成長とともに変わっていく。ごく自然のことだ」
  •  微笑ましそうに、兄ちゃんは頬をゆるめる。
  •  わからない人だなあ、と思いながら、ケンカをしたくないから黙っていた。
  •  約10年、兄ちゃんが不足していた。満足するためには後約10年かかる。他のものが欲しくなるのは、それからで十分だ。
  •  つまり、何が言いたいのかって。
  • 「……あのさ、兄ちゃん。すき焼きもメロンも美味しかったよ。だけど、食べ物だけじゃなくて、兄ちゃんの方もごちそうっぽくしてよ。ごちそうっていうか、ごほうびっていうか、特別ななんかにさ。今日はそういう日じゃねえの?」
  • 「特別な日になったさ。初めておまえと女の話をした。改めて、大きくなっははほ……」
  •  したり顔のほっぺたを、俺は引っ張った。
  • 「……っ、なんだ!」
  • 「あんた、マジでわかんねえの。わかんない振りしてんの」
  •  面倒くさそうに兄ちゃんは煙草をくわえた。ついに態度に出してきやがった。
  • 「何が特別なんだ。肩車は無理だぞ」
  • 「そんなん見ればわかるし。なんか思い出っぽいのがいいの!」
  • 「あの肉な。奮発した」
  • 「お肉は美味しかったけどお! そうじゃなくって……」
  •  もう正座止めていい?と俺は尋ねた。
  •  許可をもらって、足を崩すついでに、兄ちゃんに手を伸ばす。
  •  腕を回して、しがみついた。煙草をよけながら、兄ちゃんが後ろに手をつく。
  • 「重い」
  • 「魔法をかけて」
  •  兄ちゃんの体に絡みつきながら、俺は小さく呟いた。
  • 「子供の頃、何度も……。兄ちゃんがなんか言ったり、なんかしたときに、魔法がかかったみたいな気分になった。きらきらして、わくわくして、ものすごい感じ」
  • 「…………」
  • 「あんな風になるようなことして」
  •  俺の腕の中で、兄ちゃんはしばらくじっとしていた。
  •  煙草を灰皿において、そっと遠ざける。
  •  軽く身じろいで、体勢を整えてから、兄ちゃんは俺の背中に腕を回した。
  •  子供の頃、抱き上げられた時のような、ぬくもりが俺を包み込む。
  •  兄ちゃんがいるだけで、俺の世界は光り輝いていた。
  • 「今日はありがとう」
  •  手のひらを背中に押しつけながら、兄ちゃんが微笑んだ。
  • 「遊びに来てくれて、嬉しかったよ」
  •  たあいのない言葉に、胸が熱くなる。
  •  いきなり涙がこみ上げて、俺は兄ちゃんの肩で拭いた。ぎゅうっとしがみつきながら、切ない呼吸を震わせる。
  •  胸が締め付けられるあの感覚ーーいとおしさが心にあふれだす。
  •  なにがあっても、この手を離さない自信がある。
  •  ここに引っかかったまま、俺だけはどこにも落ちていかない。
  •  やっと……。やっと、掴まえた。
  • 「なんだ、おまえ。特別だなんてややこしいことを言って……」
  •  何度も俺の背中を撫でながら、兄ちゃんがひっそりと笑った。
  • 「甘えたかっただけじゃないか」
  • 「……っ、だって、だって……」
  •  兄ちゃんの服に皺を作っては、確かめるように掴み直した。
  •  昔はこの体が俺のジャングルジムだった。足を梯子に、腕を鉄棒にして、飽きることなく遊んでいた。
  •  だけど、同じくらいの背丈になった今、どうやって甘えたらいいのか、うまくわからなかったんだ。
  • 「泣くな。男がめそめそしていたらおかしい」
  •  兄ちゃんの手が、ぐいぐいと俺の涙を拭う。その手つきも昔のまま、俺を甘やかす。
  •  ありがとうと言ってくれて嬉しかった。
  •  嬉しかったと言われて、心からほっとした。
  •  どこかで不安だったんだ。兄ちゃんも俺に構いたくないんじゃないかって。
  •  ここにいることを許してもらえて、本当に良かった。
  • 「明日、バイクに乗せてやるから」
  • 「うん……」
  •  幽霊棟の誰も知らないような、甘ったるい声で兄ちゃんが囁く。
  •  この声は昔から、俺だけのものだった。最初から、特別はあったんだ。
  • 「いい所に連れていってやる」
  • 「うん……」
  • 「泣くことないだろ?」
  • 「うん……」
  • 「な?」
  • 「うん……」
  •  無意識に体を揺らしながら、ぽんぽんと兄ちゃんが俺の背を叩く。そのリズムが心地いい。
  •  幸福な魔法をもらったみたいに、体がぽかぽかとあたたまっていく。
  •  あの頃と同じように。
  •  兄ちゃんがいるだけで、俺の世界は光り輝いていた。