- 「魔法をかけて」
- 大げさじゃなく神聖な気持ちで、俺は槙原先生にお願いした。誕生日より、クリスマスより、身を震わせて待ちこがれた日がやってくる。
- 明日、兄ちゃんの家に泊まりに行く。
- 数年ぶりの悲願を叶えて、気が狂うほど欲しかったものを、24時間独り占めする。
- 夢みたいな時間。
- どうしても、失敗したくなかった。
- 俺は本当に本当に兄ちゃんが大好きなのに、何かがちょっとすれ違うと、兄ちゃんをこてんぱにするようなことを言ってしまう。
- おしゃべりなファイアードラゴンみたいに、ぽろっとよけいな炎を漏らして、思わぬ業火で兄ちゃんを大火傷させてしまうんだ。
- だから、心の底から俺は願った。
- 「絶対に、絶対に、ケンカしないように、魔法をかけて。今作ったいかさまの呪文でもいいから」
- 槙原先生はじっと俺を見つめてから、ふと笑みをこぼした。先生は気づいている。俺に甘い瞠でもなく、奇跡に近い咲にでもなく、先生に願い事をした理由を。
- 鉄平が大好きだった先生は、俺の頭を撫でて、小指を立てた。
- 「いいよ。はい、指切り」
- 祈りを込めて、俺は小指を絡める。
- 「御影君はケンカしないで津久居君と仲良くします。指切りげんまん。ビビデバビデブー」
- 目を閉じて祈りながら、ときめきに鼓動が高鳴った。
- 発射したミサイルみたいに、心が解き放たれていく。先生が許してくれるなら、俺は兄ちゃんを好きなだけでいられる。ああ、なにをしよう。なんだって出来る。あれもこれもそれもしたい。俺は全部、兄ちゃんとやりたい。未熟な犬なら漏らしてしまうくらい、俺は興奮していた。
- その夜は眠れなかった。
- 学校が終わるとすぐに、電車に乗って東京に向かった。 俺は人に会うたびに自慢した。今日、兄ちゃんの家に泊まりに行くんだ。
- 「あら、良かったわね」とみんな言ってくれたけど、どれほど偉大な出来事かちゃんとわかっていない。俺は長距離旅行を自慢したいわけじゃないんだ。
- 「例えばさ、あんたの一番好きな食べ物って何?」
- サラリーマンのおじさんの新聞を下げて、顔を覗き込んだ。おじさんは怯えたように目を背ける。
- 「……天丼、かな」
- 「ずっと我慢してた天丼を10年ぶりに食べれるってこと。そういう気持ちってこと!」
- 「ああ……。それはいい日だろうね」
- おじさんに納得してもらって、俺は満面の笑みを浮かべた。俺は精一杯言葉を尽くして、兄ちゃんがどれだけ格好いいか、どれだけ面白いか、どれだけ優しいかを説明する。話しながら俺が一番わくわくしていた。
- 白髪のおばあさんは、俺にこう尋ねた。
- 「あらまあ。そんなにいいお兄さんと、どうして10年も離れていたの?」
- 眉を下げて、俺は外人みたいに肩をすくめた。
- 「それが兄ちゃんの唯一の欠点なんだ」
- 「あらあら」
- 「この話をするとケンカになるからもうしないよ。ケンカしないって決めたんだ。仲いいことだけするって約束したから」
- 「お母さんと?」
- 「ううん、先生と」
- 夢見心地で、これから会う兄ちゃんを想像した。優しい顔や、叱る時の顔。それは気を抜くとすぐに、十代の兄ちゃんの顔になっちゃったけど、頑張って今の兄ちゃんの顔にしていく。
- そうしているうちに、気持ちはどんどん高ぶっていった。たぶん、ちょっと、高ぶりすぎた。
- 心臓の音が大きくなって、息がしづらくなる。
- 兄ちゃんの顔を思い浮かべると、顔が熱くなった。
- なんていうことだろう。
- 最寄り駅に着いた頃には、憧れの大スターに会う女の子みたいに、俺はもじもじしてしまっていた。
- こういうことは子供の頃にもたまにあった。
- 兄ちゃんがあまりに格好いいと感じた時や、どこかに泊まりに行った兄ちゃんが帰ってきた時。なぜか急に恥ずかしくなって、内気な子供のようにうまく話せず、物陰から兄ちゃんを覗き見たりした。
- 「もうすぐ東京だよ。お兄さんは迎えに……」
- 「兄ちゃんの話はしないで」
- スーツの女の人の台詞を遮って、俺は赤面した。兄ちゃんを思い浮かべると、顔が赤くなってしまう。なのに、頭から離れずに、何度も兄ちゃんの顔が浮かんできた。
- 今は記憶の中で学生服の兄ちゃんが、キッチンに隠れる俺に呼びかけている。
- 「プリン買ってきたぞ」
- 「後で……」
- 「あ、照れてる」
- 兄ちゃんは苦笑を浮かべて、玄関で靴を脱いだ。おかしな子、と母さんが愚痴をこぼす。
- 「さっきまで、まだ帰ってこない、まだ帰ってこないってぐずってたくせに」
- 母さんに相槌を打ちながら、兄ちゃんがゆっくりと俺の元にやってくる。その顔や、手や足を見つめては、心臓がはちきれそうになっていた。
- きっと幼心に、気づいていたんだ。
- この人が世界で一番、俺を愛してくれている人。この人が俺が世界で一番愛している人。
- そっと屈んだ兄ちゃんが「いい子にしてたか」と俺を抱き上げる。
- 悲しいような、嬉しいような、不思議な気持ちに満たされた。今思うと、あれは愛しさだったんだろう。
- ひらがなしか読めない頭でも、愛しさが胸を締め付ける感覚はちゃんと学んでいたんだ。とても切なく誇らしいことだ。
- 待ち合わせの時間まで、後5分。
- 深呼吸をひとつして、俺は猛ダッシュで近くのATMボックスに逃げ込んだ。
- 俺は瞠に相談の電話をした。
- 「瞠、緊張してきた」
- 「緊張!? 清ちゃんが!?」
- 瞠はゴジラを発見したかのような大声を上げた。
- 「なんで緊張してんの」
- 「なんかあ……。兄ちゃんが格好良すぎて……」
- 瞠は「はっ」と笑った後、猫なで声でこう言った。
- 「安心おしよ。すぐに失望できると思うから」
- 俺は煉慈にもアドバイスを求めた。
- 「ああ、わかる。家族と二人きりって緊張するよな。話題も夕飯のことしかないしさ」
- 晃弘は慰めてくれた。
- 「津久居さんは急に怒鳴ったり、飛びかかったりしないから大丈夫だよ」
- 春人は誰よりも納得してくれた。
- 「賢太郎ってそういうところあるよね。俺もたまに素でときめくよ。いいなあ。どうやったら、俺もさまになるのかなあ」
- 咲は煽ってきた。
- 「よう、清史郎。愛してる。今夜は寝かさないぜ」
- さまざまな意見に混乱しかけていると、ATMボックスの扉がガチャリと開いた。慌ててどこうとした俺の目に、兄ちゃんの姿が飛び込んでくる。
- 予告なしの登場に、心臓が止まった。
- 「こんな所にいるなよ。探したぞ」
- そう兄ちゃんは言った。
- 俺は頭が真っ白だった。かーっと血が昇って、だらだらと変な汗をかく。
- 鋭い瞳が俺を見てる。
- その口が動く。
- 「何度も電話したんだぞ。話し中だった」
- 大変うろたえてしまった俺は、携帯電話を取り落とした。
- 兄ちゃんが眉を寄せて、携帯を拾い上げる。
- 画面を確認して、耳に押し当てるだけの動作さえ、衝撃的な映像として目に焼き付いた。
- 超格好いい……。
- わかってたけど、俺の兄ちゃん、世界一格好いい!
- 衛星を乗っ取って世界配信したい気持ちと、両手で顔を覆ってしゃがみ込みたい気持ちが、頭の中でぐるぐるする。俺はいっぱいいっぱいだった。普段緊張しないから、こういう時、非常に泡を食ってしまう。
- なのに、隠れる冷蔵庫がない。
- 黙ったままの俺に、兄ちゃんが眉を上げた。
- 「……照れてるのか?」
- 見抜かれた!
- 違うよ、と言おうとしたら、口元がにやけそうになった。
- もじもじする俺に優しく笑って、兄ちゃんがそっと俺の頭を撫でる(抱っこはもう無理だから)
- あの頃と同じシーンを想像して、どきどきしながら待っていると、予想はずれの声が聞こえてきた。
- 「馬鹿か、おまえ」
- ぶっきらぼうに、兄ちゃんは言った。
- その声には羞恥が混ざっている。
- びっくりして顔を上げると、照れ臭そうに顎を引いていた。
- 兄ちゃんはそそくさと目を逸らして、ボックスの扉を押し開けた。その首筋の後ろが緊張をただよわせている。
- (兄ちゃんも照れてる)
- そう自覚したとき、鼓動が跳ね上がった。
- 俺の恥ずかしさが兄ちゃんにうつって、兄ちゃんの恥ずかしさが、また俺に戻ってきてしまった。
- 「兄ちゃん」
- 俺は兄ちゃんの背中にしがみついて、ボックスに引き戻した。通行人のおじさんが、閉まるドアを振り返る。
- ATM画面にいるイラストの女の人が、丁寧に同じ言葉を繰り返している。
- 「おい、こら」
- 「兄ちゃん、兄ちゃん」
- いろんな気持ちがこみ上げたけれど、全部伝えるのは難しかった。だから、俺は何度も呼びかけた。
- ぎゅうっと腕に力を込めて、兄ちゃんの存在を確かめる。
- やっと取り戻した宝物を俺は噛みしめていた。もう兄ちゃんは俺をだっこできないから、俺から手を伸ばさなきゃいけない。例えばこうやって。
- 頬を押しつけて、深く息を吸い込む。兄ちゃんの匂いがした。俺はとても安心する。
- こうすることで、改めて思い知った。
- こうしていることは、これ以上ない幸せだって。
- 「外だろうが……。いくつになったんだ」
- 振り返らないまま、兄ちゃんが俺の頭を叩く。その声にもう照れはなかった。
- はにかみながら、俺は頬をすり寄せた。
- 「いい子にしてたよ。兄ちゃんによろしくって」
- 「誰が?」
- 「東京駅の駅員さん。兄ちゃんに会ってみたいって言ってた」
- 複雑そうな顔で、兄ちゃんが俺を引きはがした。片腕でボックスのドアを押し開ける。
- 「あまり、知らない奴に俺の話をするなよ」
- 「なんで? 俺は兄ちゃんの話するの好き」
- ATMから出ると風が強くなっていた。兄ちゃんのバイクの後ろに乗るのを期待していたけど、兄ちゃんは歩いて駅まできたらしい。
- 並んで歩きながら、兄ちゃんのアパートに行った。俺はずっと喋っていた。
- 夕飯はすき焼きで、デザートはメロンだった。
- 田舎に帰るたび、ばあちゃんが出してくれたメニューだ。兄ちゃんなりに俺を歓迎しようとしてくれたんだろう。
- 豪華な食事は楽しいけれど、ちょっとだけ他人行儀だ。家族の特別な日にも思えるけど、お客さんの接待のようにも思える。
- でも、食べはじめたら、肉がおいしくて、余計なことは忘れてしまった。
- 「うまいな」
- 「うん」
- 肉を食いながら、兄ちゃんは当然のように、ビールの蓋を開けた。俺はまじまじと見つめてしまう。
- 戸惑いつつも、父さんにやっていたことを思い出して、缶に手を伸ばした。
- 「つぐのやってあげる」
- 「は?」
- 今度は兄ちゃんがまじまじと俺を見つめていた。
- 「どこで覚えた。槙原がやらせるのか?」
- 「何言ってんの? 父さんにもしてたじゃん」
- 「そうか?」
- 「ビール、いつから飲むようになった?」
- 「18」
- 「ん? お酒は二十歳からじゃなかったっけ?」
- 「法律ではな」
- 「兄ちゃん、春菊よけて」
- 「食えよ」
- 「椎茸食べたい」
- 「入ってない」
- 「なんで?」
- 「まずいから」
- ごはんを食べ終わると、兄ちゃんは立ち上がって、お皿を片づけた。もちろん俺も手伝った。昔よりも役に立てて、俺は得意顔だった。
- 「肉、買いすぎたな」
- 「すげーお腹一杯! でもメロン食べる」
- 「もう食べるのか」
- 「うん!」
- 「良く食えるな。わかった、切ってやる」
- 「手伝う?」
- 「いい、座ってろ」
- 狭いキッチンで洗い物をしながら、兄ちゃんは換気扇をつけた。くわえ煙草をしながら皿を片づけていく。
- 兄ちゃんの背中を見つめながら、俺はあの頃兄ちゃんがしていたエプロンの色を急に思い出した。ベージュと赤のストライプだ。兄ちゃんの足下でお話する時、俺はその模様であみだくじをしていた。
- 「兄ちゃん、何番がいい?」
- 「何番まである?」
- 「ええと、1、2、3、4……8番」
- 「じゃあ、3番」
- 「タンタンタタン……。大当たりー、一等賞! ハワイ旅行が当たりました!」
- キッチンで火を使わない時は、兄ちゃんの足下にいてもいいんだった。火を使っている時にふざけると、兄ちゃんはものすごい勢いで怒るんだった。だから、キッチンの外から俺は大声で話しかけた。
- 「ねえ! 兄ちゃん、聞いて聞いて!」
- キッチン台が一通りきれいになると、兄ちゃんはまな板の上にメロンを置いた。
- 「なんだ」
- メロンに包丁をあてがったまま、兄ちゃんが動きを止める。俺が後ろから、首筋に腕を巻き付けたからだ。
- 軽く膝を曲げてみる。
- 「もう、ぶら下がれない?」
- 「止めてくれ。腰が抜ける」
- 「今は俺の方が背え高いもんなー」
- 「ふざけるな」
- 包丁を握ったまま、兄ちゃんが険しい声を発した。びっくりして俺は後ずさる。
- 「ふざけてねえし。並んだ感じ、俺のが高くない?」
- 「馬鹿言え。その柱に背をつけてみろ」
- 刃物で脅迫されてしまっては、大人しく従うしかなかった。兄ちゃんは慎重な手つきで、俺の頭のてっぺんあたりに線を引く。場所を交換して、今度は俺が兄ちゃんの背をはかった。
- 「あー……。兄ちゃんのがちょっと上?」
- 「ほら見ろ」
- 兄ちゃんは勝ち誇って、ペンをケースに投げ入れた。口笛混じりにメロンを刻んでいく。
- それでもやっぱり、あの背中にぶら下がることは出来ないんだろう。昔みたいに勢い良く飛びついたら、兄ちゃんはぐきっと体が反対に曲がってしまう。
- おんぶなら出来るかもしれないけど、兄ちゃんのふくらはぎを梯子にして、アスレチックする事は出来ない。俺が好きだった回転車輪も、肩車も。
- 「おい、無理だぞ」
- いつの間にか、俺はまた、兄ちゃんに腕を回していた。切ったメロンを並べながら、兄ちゃんが苦笑いする。
- 「いつもそうだったな。台所に立ってると後ろからいたずらしてきて……」
- 「最後の方は、兄ちゃんの助けがなくても、兄ちゃんに登れるようになってたんだよ。覚えてる?」
- 「ああ。切ったぞ、どけよ」
- 皿を手にした兄ちゃんが振り返る。俺がどかなかったから、間近で向かい合う感じになった。
- 「どけって」
- 「兄ちゃん……」
- 自分でもびっくりするくらい、甘えた声が口から飛び出す。
- メロンの甘い匂いが懐かしい。
- メロンを懐かしいと思ったことなんて、今まで一度もなかったのに。
- 俺は兄ちゃんを抱きしめて、首筋に顔を埋めた。飛びかかるんじゃなく、そっと正面から抱きしめると、兄ちゃんは記憶とは比べものにならないくらい細かった。頼りなささえ覚えた。
- やれやれと兄ちゃんが息を吐く。メロンを載せた皿のふちで、あやすようにトストスと俺の背を叩いた。
- 「図体がでかくなっても甘ったれだな。座れよ」
- 「俺、甘えん坊だった?」
- 「時々な。ほら、清史郎」
- 「昔の兄ちゃんは、今の俺より年下だったのに、優しかったなあ」
- なにげなく呟いた。
- 「俺、嫌われ者だったのに」
- 突然、視界が変わって、俺は目を回した。
- 兄ちゃんが乱暴に皿をおいて、俺の両腕をつかんでいる。息を忘れるほど、兄ちゃんは怖い顔をしていた。
- 「誰が言った、そんなこと」
- 「違う? 母さんも父さんも、俺に手を焼いたって言ってたよ」
- 「それは嫌ってるんじゃない」
- 「別にいいよ。兄ちゃんは俺が好きだっただろ? 俺は兄ちゃんがいれば良かったし」
- 兄ちゃんが目を細める。笑いながら、俺は兄ちゃんを引き寄せて、ごろごろと懐いた。
- 「俺だけじゃなくて、父さんも母さんも、兄ちゃんが一番好きだったよ。だけど、兄ちゃんは俺を一番好きでいてくれた。そうだろ?」
- 「清史郎、それは違う。俺だけじゃなくて、お袋も親父もおまえを好きだった。俺よりもおまえを……」
- 「俺は二人とも嫌いだよ。だって、兄ちゃん泣かしたし。俺たちをバラバラにしたし」
- 兄ちゃんは言葉を失って、どこか苦しそうな顔をした。
- まずいかも? 俺はぎくりとして、慌てて話題を変えることにした。ケンカはしないって先生と約束したんだ。
- 「メロン食べよう、兄ちゃん」
- 兄ちゃんの手を引いて、俺はキッチンから連れ出した。
- 「メロンうまい。もう一切れ食っていい?」
- 「ああ」
- 「志村食いしてもいい?」
- 「ああ」
- 「超早いから見てて!」
- 「汚いから止めろ」
- メロンを刻んでから、兄ちゃんはぼんやりしてしまった。兄ちゃんは母さんや父さんのことが、あんまり得意じゃないんだ。話題にしたのはまずかった。
- 「風呂に入ってこい」
- 「一緒に入ろう」
- 「入らない。狭くて入れない」
- 「じゃあ、バタフライマックスやるから、その時だけ見に来て」
- 「なんだ、その技」
- ようやく兄ちゃんが笑った。
- 夕食、食事、睡眠と、工場のように、兄ちゃんは俺に作業を言いつける。すべてが楽しかったけど、何かが物足りなかった。本当に大事なことを話していないし、本当に大事なことをしていないような気がする。
- 夏休みと同じだ。
- 花火、お祭り、プール、川遊び。楽しいことをたくさんしても、記憶に残る思い出は、誰とどれだけ大事なことをしたかで変わる。
- 大事なことをしていれば、雨の日のバス停の景色さえ、俺たちは一生覚えていられる。
- 今日の夜もそんな日にしたかった。
- すき焼きも、メロンも、一生の思い出になるように。
- 次に思い出した兄ちゃんの顔が、二十代の顔になるように。
- 「兄ちゃん、兄ちゃん」
- 「ん?」
- 「なんか俺に質問して。いつも俺が聞いてばっかだから、たまには兄ちゃんから俺のこと聞いてよ」
- ノートパソコンをいじりながら、兄ちゃんは頬杖をついた。
- 「おまえのことなら聞かなくてもわかる」
- 「なんで?」
- 「いろいろ情報網があってな」
- 「スパイだ! でもスパイも知らない秘密がある。俺にはたくさん」
- 「へえ」
- 「ねえ、聞いて聞いて!」
- 注意を向けようとパソコンの蓋を閉めると、兄ちゃんが指を挟んだ。渋面で頭を掻きながら、じっと俺の顔を見つめる。
- 「気になる女の子は」
- 「いない。他の質問は?」
- 「昔の話でもいい。誰かいなかったのか」
- 「いないよ」
- 「……初恋は?」
- 「保育園の先生が好きだった」
- 「もっと自我のある恋愛の話をしろよ。モテないはずないだろ、俺の弟なんだから」
- 「モテないよ」
- 俺はだんだん機嫌が悪くなってきた。
- 「俺は女の子が嫌いだし、女の子も俺が嫌いだよ」
- 「そうなのか?」
- 兄ちゃんはショックを受けていた。
- 眉間に皺を寄せながら、兄ちゃんは急に居住まいを正した。
- 「そこに座れ」
- 「座ってる」
- 「正座だ」
- 「ええ……」
- 仕方なく、俺は正座した。あからさまに退屈そうな俺に対して、兄ちゃんは今日初めて、前のめりに話し出す。
- 「友達は多いはずだ。女の友達はいるだろ」
- 「いるよ」
- 「その中に好きな奴はいないのか」
- 「みんな好きだよ」
- 「なんだ、紛らわしい。女は嫌いだと言うから」
- 「友達じゃない女の子はあんまし好きじゃない」
- 「それはみんな一緒だ。好みがある。気が合うとか、時間が合うとか、体が合うとか」
- 俺は不愉快な気持ちを隠さなかった。
- 「で?」
- 「彼女を作れよ」
- 不愉快さは怒りに変わった。
- 「嫌だけど」
- 「どうして。おまえくらいの年の奴は、みんな彼女を欲しがるもんだ。咲に紹介……春人に紹介してもらえ。あいつは喜んで協力する」
- 「春人と一緒に女の子に会うのは嫌いじゃないよ。でも、それは女の子の前にいる春人が面白いんであって、女の子自体は面白くねえし」
- 「友達になれる女を探せ。それから、特別な相手を見つければいい」
- さっきまでの憂鬱そうな顔はどこへやら、兄ちゃんは満足そうに笑っていた。
- 「女のことなら多少アドバイスは出来る。おまえになにをしてやればいいかわからなかったが、ようやく答えが見えてきたな」
- 「見間違いじゃねえ?」
- 俺の仏頂面を無視して、兄ちゃんはにこにこと腕を組んだ。
- 「まあまあ。物の試しに、引っかけてみろよ」
- 「引っかけるって?」
- 「好みの女を」
- 「兄ちゃんも誰か引っかけてんの?」
- 「まあな」
- 「それで今は? 誰か引っかかってる?」
- 「今は……」
- 「引っかかってないんだ。全部おっこっちゃったんだね。じゃあ、最初から余計なことしなくていいじゃん」
- 「待て」
- 「ねえねえ、他の質問は?」
- 「待て。話は終わってない」
- 兄ちゃんのしつこさに、俺はテーブルをだんだん叩いた。
- 「この話つまんねえし」
- 「どうしてつまらないんだ。男同士が集まったら、この手の話以外にすることないだろ」
- 「女の話するくらいなら、兄ちゃんの話してよ!」
- 「真剣に答えろ。おまえは女性不信なのか? お袋や義理の妹と何か……」
- 「知らねえし! 俺は女の子といるより兄ちゃんといる方がいいし、女の子の話するより兄ちゃんの話してる方がいいよ! なんでかって言うと、女の子は道を歩けば何人も会えるけど、兄ちゃんには一〇年間会えなかったからだよ!」
- 立て膝になって、俺はまくし立てた。
- 絶句する兄ちゃんを見下ろしながら、服の袖で目元をこする。
- 「……女の子なんかより、おもちゃなんかより、俺は兄ちゃんが欲しかった。兄ちゃんの手紙が欲しかった。やっと我慢しないでお腹一杯天丼食べられるっていう時に、なんでピーマンの肉詰めすすめらんなきゃなんねえの」
- 「天丼……?」
- 「ひどいよ、あんたはいつも。……ああほら、ケンカしないって先生に約束したのに破らせた」
- 被害妄想ないい方だったけれど、兄ちゃんは表情を改めてくれた。泣き出しそうになる俺の手を、そっと掴んで外させる。
- 「わかった。悪かった。この話はまたにしよう」
- 「俺は女の子より兄ちゃんが好きだよ……」
- 「結論を急ぐな。もう少し落ち着いたら、おまえにもわかる」
- 「俺は変わらない」
- 「その辺は変わったっていいんだ。騎士のように一途に、俺に忠誠を尽くす必要はない。俺より特別な人間が出来たって、軽薄なことじゃないんだ。大切な物は成長とともに変わっていく。ごく自然のことだ」
- 微笑ましそうに、兄ちゃんは頬をゆるめる。
- わからない人だなあ、と思いながら、ケンカをしたくないから黙っていた。
- 約10年、兄ちゃんが不足していた。満足するためには後約10年かかる。他のものが欲しくなるのは、それからで十分だ。
- つまり、何が言いたいのかって。
- 「……あのさ、兄ちゃん。すき焼きもメロンも美味しかったよ。だけど、食べ物だけじゃなくて、兄ちゃんの方もごちそうっぽくしてよ。ごちそうっていうか、ごほうびっていうか、特別ななんかにさ。今日はそういう日じゃねえの?」
- 「特別な日になったさ。初めておまえと女の話をした。改めて、大きくなっははほ……」
- したり顔のほっぺたを、俺は引っ張った。
- 「……っ、なんだ!」
- 「あんた、マジでわかんねえの。わかんない振りしてんの」
- 面倒くさそうに兄ちゃんは煙草をくわえた。ついに態度に出してきやがった。
- 「何が特別なんだ。肩車は無理だぞ」
- 「そんなん見ればわかるし。なんか思い出っぽいのがいいの!」
- 「あの肉な。奮発した」
- 「お肉は美味しかったけどお! そうじゃなくって……」
- もう正座止めていい?と俺は尋ねた。
- 許可をもらって、足を崩すついでに、兄ちゃんに手を伸ばす。
- 腕を回して、しがみついた。煙草をよけながら、兄ちゃんが後ろに手をつく。
- 「重い」
- 「魔法をかけて」
- 兄ちゃんの体に絡みつきながら、俺は小さく呟いた。
- 「子供の頃、何度も……。兄ちゃんがなんか言ったり、なんかしたときに、魔法がかかったみたいな気分になった。きらきらして、わくわくして、ものすごい感じ」
- 「…………」
- 「あんな風になるようなことして」
- 俺の腕の中で、兄ちゃんはしばらくじっとしていた。
- 煙草を灰皿において、そっと遠ざける。
- 軽く身じろいで、体勢を整えてから、兄ちゃんは俺の背中に腕を回した。
- 子供の頃、抱き上げられた時のような、ぬくもりが俺を包み込む。
- 兄ちゃんがいるだけで、俺の世界は光り輝いていた。
- 「今日はありがとう」
- 手のひらを背中に押しつけながら、兄ちゃんが微笑んだ。
- 「遊びに来てくれて、嬉しかったよ」
- たあいのない言葉に、胸が熱くなる。
- いきなり涙がこみ上げて、俺は兄ちゃんの肩で拭いた。ぎゅうっとしがみつきながら、切ない呼吸を震わせる。
- 胸が締め付けられるあの感覚ーーいとおしさが心にあふれだす。
- なにがあっても、この手を離さない自信がある。
- ここに引っかかったまま、俺だけはどこにも落ちていかない。
- やっと……。やっと、掴まえた。
- 「なんだ、おまえ。特別だなんてややこしいことを言って……」
- 何度も俺の背中を撫でながら、兄ちゃんがひっそりと笑った。
- 「甘えたかっただけじゃないか」
- 「……っ、だって、だって……」
- 兄ちゃんの服に皺を作っては、確かめるように掴み直した。
- 昔はこの体が俺のジャングルジムだった。足を梯子に、腕を鉄棒にして、飽きることなく遊んでいた。
- だけど、同じくらいの背丈になった今、どうやって甘えたらいいのか、うまくわからなかったんだ。
- 「泣くな。男がめそめそしていたらおかしい」
- 兄ちゃんの手が、ぐいぐいと俺の涙を拭う。その手つきも昔のまま、俺を甘やかす。
- ありがとうと言ってくれて嬉しかった。
- 嬉しかったと言われて、心からほっとした。
- どこかで不安だったんだ。兄ちゃんも俺に構いたくないんじゃないかって。
- ここにいることを許してもらえて、本当に良かった。
- 「明日、バイクに乗せてやるから」
- 「うん……」
- 幽霊棟の誰も知らないような、甘ったるい声で兄ちゃんが囁く。
- この声は昔から、俺だけのものだった。最初から、特別はあったんだ。
- 「いい所に連れていってやる」
- 「うん……」
- 「泣くことないだろ?」
- 「うん……」
- 「な?」
- 「うん……」
- 無意識に体を揺らしながら、ぽんぽんと兄ちゃんが俺の背を叩く。そのリズムが心地いい。
- 幸福な魔法をもらったみたいに、体がぽかぽかとあたたまっていく。
- あの頃と同じように。
- 兄ちゃんがいるだけで、俺の世界は光り輝いていた。